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大阪高等裁判所 昭和41年(う)2266号 決定 1973年3月27日

被告人 木沢恒夫 外五名

主文

別紙記載の供述調書を証拠から排除する。

理由

第一、最高裁判所の破棄差戻判決の拘束力と任意性調査の範囲

一、本件破棄差戻判決は、差戻し前の控訴審(以下第一次控訴審という。)における自白の任意性に関する審理不尽を破棄理由とするものであるが、審理不尽を破棄理由とする破棄差戻判決の拘束力は、破棄の理由とされた事実上及び法律上の判断について生じ、その事実上の判断についての拘束力は、破棄の直接の理由、すなわち原判決に対する消極的否定的判断についてのみ生ずるものであり、その消極的否定的判断を裏付ける積極的肯定的事由についての判断は破棄の理由に対しては縁由的な関係に立つにとどまり、なんらの拘束力を生ずるものではない(最高裁判所昭和四三年一〇月二五日第二小法廷判決刑集二二巻一一号九六一頁参照)。これを本件についてその判文からみるに、右破棄差戻判決の拘束力は、勾留されている被疑者が、捜査官から取り調べられる際に、手錠を施されたままであるときは、特段の事情のないかぎり、その供述の任意性につき一応の疑いをさしはさむべきであるとする法律上の意見と、被告人らの取調に際し、捜査官が手錠を施したままであつたか否か、これを施用、したままであつたとしても、その供述の任意性を肯定すべき特段の事情が存したか否かの点その他被告人らの自白調書の任意性の有無(警察官に対する自白調書のみ任意性に疑いがあるとしても、検察官の取調について警察官の取調の際における影響が遮断されていたか否かの点についても同様)についての第一次控訴審における審理を不尽とする範囲内に限定されるものというべきであり、したがつて右破棄差戻判決は、自白調書の任意性の存否についてはもちろん、その基礎となる事実、すなわち手錠の施用、正座の強制等の存否についてなんらの判断を示しておらず、これらの点に関する事実の確定及び任意性の判断は、前記拘束力のもとにおいてすべて当審の審理の結果に委ねられたのである。

二、当審における自白の任意性についての調査の範囲は、前記破棄差戻判決が審理不尽とする点に尽きると考えられるが、その調査の対象となる自白調書の範囲は、厳密にいえば、一審判決及び第一次控訴審判決(以下一審判決等という。)に引用された自白調書に限られるべきかもしれないが、後記第三の「任意性に関する個別的検討」の項の各被告人らの欄の頭初に掲げる如く、一審判決等に引用された自白調書は、一審が証拠として採用し取り調べた各被告人らの供述調書の一部に過ぎず、警察官調書と検察官調書とは任意性の調査に関して関連があり、しかも、刑事訴訟法三九四条により一審において証拠とすることができた証拠は控訴審においてもこれを証拠とすることができるのであるから、弁護人及び被告人が捜査官に対する自白の任意性を争う以上、右一審が証拠として採用した被告人及び元相被告人の供述調書の全部について、その自白の任意性の有無を判断することとする。

なお、記録によれば、本件関係の被告人及び元相被告人のうち、被告人木沢、同斎藤は、別件の吹田事件で逮捕勾留されて本件各事件についても取り調べられ、被告人出上、同中島は宮原操車場における汽車往来危険の被疑事実(以下「宮操事件」という。)元相被告人井内秀雄、被告人奥野(現姓「上殿」であるが、調書との関連上以下「奥野」という。)は大西方に対する爆発物取締罰則違反等の被疑事実(以下「大西事件」という。)で逮捕勾留されて別件の吹田事件についても取り調べられ、その取調が交互に入り組んでなされていることがうかがわれるので、当裁判所は、被告人らの自白の任意性を調査するにあたり、検察官から、吹田事件を含め本件各事件に関する全供述調書を被告人ごとに日付順に記載した「宮操関係取調状況一覧表」(四二六四丁)を提出せしめ、これを参考として証人及び被告人質問を行なつた。(右一覧表中、被告人中島の項の末尾に「28 2 18保釈釈放」とあるは「28 2 11保釈決定、28 7 18保釈釈放」の誤り、被告人村田の項の表冒頭「27 10 3緊逮宮操事件」とあるは「27 10 3緊逮籾井事件」(注、籾井方に対する爆発物取締罰則等違反事件で以下「籾井事件」という。)の、裏冒頭「27 10 23起訴宮操事件」とあるは「27 10 23起訴籾井事件」の誤りと認められ、同被告人の項の備考欄に「宮操事件」とあるをすべて「宮操、籾井事件」と読み替える。)

第二、本件発生当時の社会的背景、取調状況の概況及び自白の任意性に関する一般的考察

一、本件発生当時の社会的背景

本件宮操事件及び籾井事件は昭和二七年六月七日、大西事件は同年七月一四日にそれぞれ発生したものであるが、当時の世相は、朝鮮戦争、対日平和条約の発効等により騒然としたものがあり、このような不安定な社会情勢を背景として、辰野事件(昭和二七年四月二二日)、メーデー事件(同年五月一日)、五・三〇事件(同年五月三〇日)、枚方事件(同年六月二四日)、吹田事件(同年六月二五日)、高田事件(同年六月二六日)、大須事件(同年七月七日)等が全国的に相次いで発生し、本件各事件もその一環として発生したものとみられるのである。大阪府下においては枚方、吹田、本件等の各事件が相前後して発生したため、府下の警察はこれら事件の大量容疑者(枚方事件の被告人数は五七名、吹田事件九五名)の検挙捜査に追われ、本件に関する捜査陣は吹田事件の捜査にも当つたのである。

二、取調状況の概況

前記のような社会的背景のもとに起つた吹田事件及び本件各事件の被疑者として①被告人斎藤は昭和二七年八月一日、②被告人木沢は同年九月一五日、③野上は同年九月一六日、④被告人出上は同年九月二九日、⑤井内は同年九月三〇日、⑥被告人村田は同年一〇月三日、⑦被告人中島は同年一〇月三日、⑧被告人奥野は同年一〇月一四日にそれぞれ逮捕されたが、いずれも警察官の取調に対し対抗意識が強く取調に対して黙秘し、ことに初期に逮捕された斎藤、木沢、野上の黙秘の態度は固く、犯罪事実に関しては斎藤は逮捕後取調(以下同じ)一一、二日目(火炎びん準備事件)、木沢は八日目(吹田事件)、野上は一三日目(宮操事件)にして初めて自白し、それより後期に逮捕された者は、奥野が二二日目に自白(ただしそれまでに黙秘のまま起訴された。)したほかは、井内は即日、出上は三日目、村田、中島は四日目位など比較的に早く自白するに至つたもので、以上の事実は本件記録及び当審における事実取調の結果により明らかである。

三、自白の任意性に関する一般的考察

自白の任意性に関する被告人らの主張は、警察における暴行、脅迫、取調に際しての手錠の施用、正座の強制、供述の押しつけ、利益誘導及び警察官の取調の際の強制の繰り返しをおそれて検察官のいうままに述べたとの主張、並びに起訴後の取調に大別される。そのような事実の存否については、のちに各個別に検討することとして、ここには右のうち手錠の施用、正座の強制、供述の押しつけ、警察官の取調における強制と検事調書の任意性との関係及び起訴後の取調について一般的な考察をすることとする。

(一)  取調中に際しての手錠の施用

すでに勾留されている被疑者が、捜査官から取り調べられるさいに、さらに手錠を施されたままであるときは、その心身になんらかの圧迫を受け、任意の供述は期待できないものと推定せられ、反証のない限り、その供述の任意性につき一応の疑いをさしはさむべきものと解すべきことは最高裁判所の判例の示すところであり、本件破棄差戻判決もこの見解のもとに差戻し、当裁判所もこれに拘束されるところである。思うに、右判例が、手錠を施用したままの取調につき「心身になんらかの圧迫を受け、任意の供述は期待できないものと推定される。」というのは、手錠の施用が、身体の自由を直接拘束するだけでなく、被疑者に卑屈感を抱かせ、取調に対して迎合的になり易いということによるものと考えられるのであるが、その傾向は、被疑者の年令、境遇、社会的地位などによつて相当の違いがあるのみならず、両手錠か片手錠かによつても差異があることは是認されるところであろう。両手錠の場合は身体の拘束の程度が強く、そのために受ける心理的圧迫感も相当強いと思われるのに対し、片手錠の場合は両手はかなり自由で、起居動作には支障がなく、片手錠施用による身体の拘束はきわめて軽度であるから、勾留されていること自体からなにがしかの心理的、肉体的圧迫感を受けている被疑者にとつて片手錠施用によつて受ける心理的圧迫感も弱く、被疑者によつては心理的圧迫感がきわめて微弱な場合のあることは十分考えられるところである。このようにみてくると、取調に際し両手錠を施用したままであつたときは、被疑者が逃亡、暴行、自殺のおそれが濃厚であるなど、その施用が何人も是認し得る場合や、前記判例の指摘する如くその取調が終始おだやかな雰囲気のうちに進められ手錠の施用と自白との間に因果関係がないと認められる場合には、その取調の際の自白は任意になされたものというべきであるが、然らざる場合は任意性に疑いがあるものと解するのが相当であり、他方、取調に際し片手錠を施用したままであつたときは、両手錠施用のときに比しその任意性のある場合の範囲をゆるく解し、前記の場合のほかに、その取調が終始おだやかな雰囲気とはいわれない場合であつても、被疑者の年令、境遇、社会的地位、性格、その他取調の状況などからして、片手錠の施用と自白との間に因果関係が存在しないと認められる場合には、その取調の際の自白は任意性があるものというべきであり、然らざる場合は任意性に疑いがあるものと解するのが相当である。なお、警察官の証人の中には、取調に際し被疑者に腰なわを施用したままであつたと供述するものがある。取調に際し腰なわを施用することは、特段の事由のない限り避けるべきであるが、腰なわの施用の場合は、片手錠の施用の場合に比し、被疑者に与える拘束感、圧迫感はさらに微弱であると考えられるから、供述の任意性に関する限り、取調に際し腰なわを施用していたからといつて、いまだこれをもつて直ちにその供述の任意性に疑いをさしはさむべき理由と解することは必ずしも妥当であるとは思われない。

(二)  正座の強制

正座に馴れない者が正座を強いられることは相当の肉体的苦痛であることはいうまでもなく、また馴れている者であつても、正座が長時間にわたることはかなりの苦痛であることに変りはなく、したがつて、正座の強制は、一種の肉体的苦痛を与える手段として供述の任意性を疑わしめる一つの資料となりうるものというべきである。しかし、取調の初め正座させることがあつても、それが短時間であつたり、時間がたつにしたがつて自由に足をくずさせる状況であつた場合には正座を強制したものといえないことはいうまでもない。

(三)  供述の押しつけ

捜査官が、被疑者の意思に反する供述を押しつけるような取調をすることは、虚偽の自白を誘引するおそれがあり、このような取調による自白は任意性に疑いがあるものというべきである。しかしながら、取調に当り、被疑者が黙秘ないし否認している場合、あるいは記憶を喪失している場合、またはその供述が他の証拠と矛盾する場合などに、被疑者に条理を説いて供述を促し、あるいは蒐集された資料に基づいて記憶の喚起を促し、あるいは矛盾をただして取り調べることは、それが合理的な限度を超えない限り、取調方法として許されなければならない。そして、合理的な限度を超えていないかどうかは、捜査官の取調状況、被疑者の受けとめ方、その他諸般の事情を考慮して、事案ごとに個別的に検討すべき事柄である。

(四)  警察官の取調における強制と検事調書の任意性との関係

警察における自白が強制によるものである場合、その後になされた検察官の取調に強制がなくとも、警察における強制と検察官に対する自白との間に因果関係があると認められるときは、検察官に対する自白の任意性に疑いがあるものといわなければならない。そして、右の因果関係があるかどうかの判断の基準としては、(1)警察官の取調と検察官の取調との間の日時の間隔、(2)両者の取調場所が同一かどうか(同一の場合は警察署の留置場に拘束されている場合が多いと考えられる。)、異なるとしても留置場所が同一かどうか、(3)検察官の取調に際して警察での取調に関与した警察官が立ち会つたかどうか、(4)検察官に対する供述が警察官に対する供述の単なる反覆にすぎないかどうか、(5)被疑者の健康状態などが考えられる。ことに、警察官の強制により自白した被疑者が、警察署に留置されたまま、検察官の取調を受けるときは、その取調場所が警察署である場合はもちろんのこと検察庁である場合であつても、検察官に対し黙秘または否認をしたならば、その取調を終えて警察署の留置場に戻つた際に、再び警察官の取調を受けるのではないだろうかという心理的な畏怖感ないし圧迫感を抱くことのあることは十分考えられるところであるから、検察官に対する自白の任意性に疑いがあるかどうかは、前記(2)の基準の留置場所の如何、すなわち、警察の影響を受けると認められる場所であるか否かに大きく左右される場合のあることは否定しがたいところである。いずれにしても、前記因果関係の存否は、前記のような基準のほか具体的場合における諸般の事情を総合したうえで判断されるべきである。

(五)  起訴後の取調

刑事訴訟法一九七条は、捜査については、その目的を達するため必要な取調をすることができる旨を規定し、同法一九八条一項は、捜査をするについて必要があるときは、被疑者の出頭を求め、これを取り調べることができる旨を規定している。そして、右一九七条は、捜査官の任意捜査についてなんら制限的規定をおいていないから、起訴後起訴事件について被告人を取り調べることは、右一九八条の被疑者という文字にかかわりなく許されるものといわなければならない。しかしながら、他面、被疑者も一たん起訴されるや、検察官と対立する当事者としての地位にも立つのであるから、起訴後も当該起訴事実について被告人を無制限に取り調べることができるものとするときは、その実質的防禦権を侵害するおそれのあることは十分考えられるところである。したがつて、起訴後の取調は、公訴維持に必要にして、被告人の実質的防禦権を侵害しない限度においてのみ許されるものと解するのが相当である。捜査官が黙秘のまま起訴された勾留被告人の余罪取調中に被告人自らの申出により起訴事件について取調をする場合や、既に供述している事項について補完的に説明を求め、あるいは共犯者の面通しをするために被告人の取調をするような場合は、被告人の防禦権を侵害するものとは解されない。

第三、任意性に関する個別的検討

各被告人及び野上銀次郎、出上桃隆、井内秀雄の各供述調書の任意性の有無につき、その検挙された順序に従つて検討を加えることとする。

一、被告人斎藤勇について

(一)  本件記録及び当審における事実取調の結果によれば、被告人斎藤は、昭和二七年八月一日別件の吹田事件で逮捕され、同事件についてアリバイが判明するとともに別件の爆発物取締罰則違反事件(吹田事件前日の火炎びん準備行為事件であつて、のちに起訴されたが、火炎びんは爆発物ではないとの理由で無罪確定)が発覚し、つづいて本件籾井、宮操両事件が発覚したため、まず同年八月二三日吹田事件につき釈放されるとともに同日右爆発物取締罰則違反で起訴勾留され、さらに同年一一月二一日宮操、籾井両事件で起訴、勾留され、父危篤つづいて死亡のため同年一二月二日から同月五日午後四時まで勾留執行停止を受け、同月二四日の保釈決定により同日釈放されたもので、その間における同被告人の本件宮操、籾井両事件についての自白調書として原審が証拠として採用し取調をしたものは次のとおりであることが認められる。

(1) 警察官に対する自白

番号

年月日

回数

取調官

取調場所

供述内容

丁数

1

27・8・21

第一回

前末三男

天満署

籾井・宮操

七九三

2

26

第二回

籾井

八〇五

3

27

第三回

籾井・宮操

八一三

4

27

第四回

(見取図)

八一七

5

28

第五回

宮操

八一九

6

29

第六回

八二二

7

30

第七回

〃(面割)

八二五

8

9・8

第八回

大西

八二八

9

9・9

第九回

籾井・宮操

八三四

10

9・16

第一〇回

宮操(面割)

八三八

11

9・19

第一一回

籾井

八四一

12

9・29

第一二回

宮操

八四三

13

10・3

第一三回

花谷清次

籾井

八五一

14

10・6

第一四回

十三橋署

八六〇

15

10・9

第一五回

天満署

宮操

八六三

16

10・14

第一六回

籾井

八六五

(2) 検察官に対する自白

番号

年月日

回数

取調官(立会者)

取調場所

供述内容

丁数

1

27・9・17

第三回

別所(川口)

天満署

籾井・宮操

七五一

2

9・18

第四回

〃(坂根)

籾井

七七五

3

10・6

第五回

〃(小林)

十三橋署

宮操(面割)

七七七

4

10・7

第六回

〃(妻木)

天満署

籾井・宮操

七七九

5

10・23

第七回

〃(〃)

大阪地検

七八九

6

11・7

第八回

〃(〃)

大阪拘置所

黙秘

七九一

なお、右供述調書のうち一審等判決が事実認定の資料に引用したものは、経歴関係では検察官に対する番号1、宮操事件関係では検察官に対する番号134、籾井事件関係では検察官に対する番号124の各供述調書である。

(二)(1)  しかし、右供述調書中、検察官に対する番号5の供述調書は、自白を内容とするも、被告人斎藤の署名押印がなく、また検察官に対する番号6の供述調書は黙秘を内容とするものでこれについても被告人斎藤の署名押印がなく、いずれも刑事訴訟法三二一条一項二号、三二二条一項に規定する形式的要件を欠くものであるから、証拠能力を欠くものといわなければならない。

(2)  右(1)の供述調書を除くその余の供述調書の供述について、被告人斎藤が自白の任意性を争う主張の要旨は、次のとおりである。

すなわち、同被告人は、野上銀次郎に対する汽車往来危険被告事件の公判(以下「野上の公判」という。)の証人(第三〇回)として、また当審第二五回公判における被告人として供述するところは、「昭和二七年八月一日扇町プールの入口で逮捕されて天満署に連行されたのち城東署へ留置された。翌二日四畳半位の畳の部屋で前、花谷、両刑事に調べられた。初め前刑事と机をはさんで相対しうしろ手錠で正座させられていたとき花谷刑事が入つて来て、二言、三言『名前は。』と聞いたが、私が黙つているものだから、いきなり右手拳で両ほほを往復びんたをかまされたので度胆を抜かれた。その際『お前らのようなアカは日本の法律を守らんのだから、わしらも日本の法律を守つて調べる必要はない。』とどなつた。私は、これより前に政令三二五号違反で警察に留置されたことがあつたが、そのときは殴られるとか、正座させられるということはなかつたが、今度はびつくりしてしまつた。そして花谷刑事は『おれは戦前からアカ狩りの特高におつて軍隊で騎兵にいた。』とか、『名前を言え。』とか言い、私が黙つていると、『物言わん地蔵さんだつたら向う向いておれ。』と言つてうしろ手錠、正座のままの状態で壁の方へ押して行かれた。正座をさせられて一時間を越えたころから辛棒ができなくなつて足をくずしかけると、花谷刑事が私の足を蹴とばして『何をさらすんや。』『よその家へ来て膝をくずすというような失礼なことがあるかい。』と言つて、前刑事と二人がかりで正座をしなおされた。昼食は調べ室で片手錠にしてくれたが、やはり正座したままだつたので、足が痛くて食欲もなく、半分程食べ残した。午後になつても正座、うしろ手錠の状態が続き、足が痛くてしようがないので、どつかれてもまた足を投げ出す、ひつくり返るとまた元どおり正座させられるということが繰り返され、横になると、髪の毛を引張つてひきずり起こされた。夕方四時か五時頃までその部屋にいて、房に帰るにも、前刑事の肩を借りて帰つた。夕食は房で全部食べた。三日は日曜日だつたが、午前中から同じ畳の部屋で前日同様壁に向つてうしろ手錠のまま正座させられた。その日は藤本、川上両刑事が応援に来た。房へ帰らずに午後も調べられた。藤本刑事は、正座している私の膝に両手をつかえて自分の体重をかけながら私の足をもみ、ひげ面の顔を私の顔に寄せて来て『名前を言え。』と言うので、気味が悪いうえに足が辛棒できない位痛くなつて来た。花谷刑事はその部屋から出たり入つたりしていたが、『名前を言えまだぬかさんのか。』など言つて、私の頭や顔面を小突いたりすることが数回あつた。応援に来た川上刑事は『わしは、そこらで盗人を調べているような普通の刑事と違うんだ。わしはたたき専門やから、お前らのような若僧の一人や二人口を割らすのはわけないんだ。』と毒づき、下から私の顎をこぶしで小突いた。川上刑事は、また私の友人の名前をあげては『もう誰それもしやべつた。お前だけ言わんとしておつたら損するぞ。』と言うていた。昼食はその部屋で正座のままとり、夕方五時頃まで調べられた。房へ帰つて足を投げ出しても、自分の足か人の足かわからんような状態だつた。八月四日勾留尋問後、西成署へ移され、翌五日花谷、前両刑事らに調べられたが、私自身吹田事件には参加してなかつたので、はつきりさせる必要があるだろうという気がして、名前や住所を言つた。もちろん名前を言う前にはうしろ手錠、正座で、刑事が『名前を言うたら膝もくずさしてやるし、煙草も吸わしてやろう、楽な気持で調べをしようじやないか。』というふうなことは、しよつちゆう言うていた。名前を言うと膝をくずさせてくれ、前手錠にかわつたと思う。待遇が全然変つてきた。その日は名前と本籍、住居、経歴等について言うたと思う。『吹田事件に参加していない。』と言うと、『それだつたらアリバイをはつきりせえ。』と追及されたが、その日は言わなかつた。八月八日にアリバイについて言うた。八月一一日南署に移され、南署では花谷、前、藤本刑事らに八畳位の畳の部屋で正座、前手錠で吹田事件に参加しないで高槻におつたのなら、何をしていたのか、と追及されたが、黙秘すると、『もう一ぺん考え直すか。』と言つて正座させられ、うしろ手錠にされた。一〇日間の勾留と思つていたのに勾留延長され、がつくりした。南署に四、五日か一週間かおつて天満署に移されたが、南署におる頃から宮操事件のことを聞かれたりしていた。天満署に移つたとき、二階の八畳位の畳部屋で花谷、前両刑事から本件の籾井、宮操両事件について調べられた。天満署に移されて二、三日後に別所検事に署長室で火炎びん事件のことで調べられたが、検事は、私が花谷、前刑事に言うたことをメモしていて、それを見ながら事務官に書かしていた。私が黙つたりすると『早う出たいなら、さつさとせい。』とどなつたりした。八月二三日に吹田事件について釈放になつて、すぐ爆発物事件で逮捕された。宮操、籾井事件の調べについても、自供しているときは片手錠にしてくれ、足もくずさせてくれたが、黙秘すると、正座をさせられたり、後手錠にされ、小突かれたりしたことが再々あつた。刑事が筋書みたいなものを持つていて、それに基づいて追及された。正座のため、自分の足かどうかわからんような状態がずつと続き、警察の食事がものすごく悪く腹がへつて身体の方もまいりかけていた。逮捕されてから四七日目の九月一六日頃、天満署で弁護人の面会があり、一七日に天満署で別所検事に調べられた。それまで警察の言いなりになつていたが、やつぱりしやんとしなければならないという気持になり、積極的には供述せず、きかれても黙つたりした。そのため、検事から、弁護士と面会したら早速態度が変るじやないかと言われた。検事は、それまで自分が警察に述べたことを要約してメモをしていて、わからないところを追及しながら読むような感じで、口述しながら調書を作つた。翌十八日も検事の調があつた。検事の調は朝一〇時半か一一時頃から始つて一時か一時半頃まで続き、午後も続いて調があるときもあつたが、午後からだけのこともあり、午後三時頃から調べられたときは妻木事務官が立会で夜の九時、一〇時頃になつたと思う。検事の調ののち、また花谷、前、藤本刑事らの調が畳部屋でなされ、黙秘すると、正座、うしろ手錠にされ、髪の毛を引つ張られたり、小突かれたりした。一〇月頃になると調がたまにしかなくなり、身体が一寸回復して来たので、一〇月二三日大阪地検での別所検事の調べのときは、頑張らなくてはいけないと思つて署名押印を拒否し、一一月六日に大阪拘置所へ移されると、食事もぐつとよくなり、すぐ弁護士と面会することができ、気分的に変つて本来の黙秘の気持に戻つて一一月七日の拘置所での検事の調べのときは黙秘し、署名押印もしなかつた。警察での調書に書いた見取図は警察官が言うたとおりに書いた。」と供述し、同被告人自らも、任意性についての一審証人花谷清次(一審第一〇回公判)に対し、八月二日城東署へ連れて行かれ調べられたとき、証人は私にお前ら共産党員は法律を守らぬから憲法でいう黙秘権は告げる必要はないと言つて私の髪の毛を引つ張つて殴つたことはどうか、私に正座を強制し、事実ないことを強制したり誘導したことはどうかと反対尋問し、同じく原審証人前末三男(原審第一〇回公判)に対しても、証人は私に正座を強要したことはどうか、花谷部長から髪を引つ張られて殴られたことはどうかと反対尋問している。

これに対し、原審証人花谷清次、同前末三男(一審第一〇回公判)は、いずれも被告人斎藤の反対尋問の事実の存在を否定し、花谷証人は「取調中自分は正座することもあつたが、相手に正座を強制したことはなく、また暴行、脅迫など不当な取調をしたことはない。」と述べ、前証人は、「私自身調の際正座しているので、あるいは斎藤被告人が正座していたかもしれないが、相手に強要したことはない。」と述べ、原審証人妻木龍雄(一審第八回公判)は「斎藤については夜の一二時近くまで調べるというようなことはなかつた。」と述べており、当審証人前末三男は、「斎藤は八月一日に逮捕されたが、私は竹本哲雄を調べていたため、斎藤を取り調べたのは同月一一日頃南署で取り調べたのが最初で、それまでは斎藤を調べていない。八月一一日の取調には花谷主任、藤本、私が当つた。その時の斎藤の態度は非常に素直だつた。八月一三日の取調は私一人で取り調べた。斎藤は吹田事件のアリバイとして別件の火炎びん製造事件をすらすらと供述し、いつしよに火炎びんを製造した者の名前を具体的に挙げていた。だから若僧の自分が斎藤の取調べをまかされたものと思う。取調べは腰なわだけで手錠はかけていなかつたと思うし、また斎藤にはあぐらをかくなり正座するなり自由にさせており、正座を強要したことは一度もない。八月一三日勾留延長になつたが、当時は斎藤は吹田事件についてのアリバイを主張し、しかも火炎びんを作つたことについては供述を始めていたから本人の態度に変つたところはなく、斎藤がひどいシヨツクを受けたという記憶はない。八月一八日に天満署へ身柄を移したのは、詳しくはわからないが、吹田事件の関係で各署それぞれにかなりの留置人があつたことと、当時斎藤は籾井事件について断片的な自供を始めておつたように思うので、当時天満署にその事件の捜査本部があつたから、天満署の方に移したんだろうと思う。当時、天満署には椅子式の取調室がなかつたように記憶しているが、それで二階の畳の部屋で調べた。天満署で私が取り調べたときには花谷主任は関係しておらず、私の取調状況もこれまでのとおりで、斎藤は、籾井事件については関係のない人に迷惑をかけたということで非常に反省していて、事実ありのままを自分の記憶を整理しつつ正確に話をするという供述態度で、まじめで几帳面な性格、情熱的な男だと思つた。『共犯者の名前については言えない。』という場面もあつたが、こちらも『時期がきたら話せ。』というような具合で取調をすすめ宮操、籾井事件について供述した。供述調書添付の図面は斎藤自身が書いたもので、斎藤のきちようめんな性格がそのまま出ている。花谷主任は私より二ヵ月早く昭和二一年四月に警察官になつたのだから、花谷主任が戦前の特高警察あがりだと言うはずはない。」旨述べ、当審証人川上秋次は、「斎藤被告人が取り調べられているところへ行つたことについては記憶はないし、斎藤の名前も記憶にない。」旨述べている。

(三)  ところで、本件記録、ことに前掲関係証拠を総合すると、被告人斎藤が吹田事件で逮捕されたのは昭和二七年八月一日で、当時本件宮操、籾井、大西の各事件については何ら捜査の端緒が存在しなかつたときであるが、被告人斎藤は、昭和六年一月生れで当時二一歳、逮捕以来被疑事実である吹田事件については黙秘を続けていたが、吹田事件に参加していないところから、逮捕後七日目の八月八日にそのアリバイについて供述し、当時どこにいたかを追求された結果、同月一二日から吹田事件の前日に高槻で火炎びんを準備したことを供述し、さらに同被告人が宮原操車場に勤務し解雇されたことがあつたところから、宮操事件を追及されて同月二一日に、宮操事件の際道案内したのち籾井方にラムネ弾を投げたことを供述するに至り、その後も宮操、籾井両事件及び火炎びん準備事件について警察官、検察官入り組んでの取調を受け終始自供していたが、同年一〇月二九日の大阪地検での検察官の取調を受けた頃から同年一一月六日に拘置所に移監されてのちも、右各事件について黙秘したこと、並びに被告人斎藤の自供を端緒にして本件宮操、籾井、大西の各事件につき本件各被告人及び野上、出上、井内らが次々に検挙されるに至つたものであることが認められる。被告人は逮捕の翌日から花谷、前両刑事らに取り調べられたというのに対し、当審前証人は自分が取り調べたのは逮捕後一一日目の八月一一日頃からであるというのであるが、前証人は被告人斎藤の供述調書を調べてみて、自己の署名のある分についてのみ自分が取調に関与したもので、署名のない部分については関与していないというもののように思われ、他方他の被告人についての取調状況をみると二人で取調に当つているのを通例としているところからすれば、被告人斎藤に対する取調も八月二日以降は大体二人位の刑事によつて行なわれ、供述調書にはそのうちの一名のみが署名する場合もあつたとみるのが相当と考えられる。そして、同被告人は、自供するに至つた動機について前示の如く、前後両手錠の施用、長時間にわたる正座の強制、殴る、蹴る、小突くなどの暴行、供述の押しつけなどにより、これに耐えかねた結果自供するに至つたと供述するのである。しかし、両手錠の施用の点に関しては、被告人斎藤のいうような後両手錠、ことに黙秘すると片手錠から後両手錠にされるということは特異な現象であるのに、同被告人の出席していた一審第九回公判において、証人広田正雄に対し野上が、証人平岡に対し被告人木沢が、証人井村正雄に対し被告人木沢が、それぞれ両手錠の施用について尋問していて、被告人斎藤もこれを聞いていた筈であるのに、一審第一〇回公判における前記花谷、前両証人に対する尋問に際しては、被告人斎藤は手錠の施用に関する尋問はしておらず、また、当審前証人は腰なわだけで手錠はかけていなかつたと思うと述べて手錠の施用について必ずしも断定的には否定していないことなどからすると、手錠の点については、黙秘の場合は後両手錠であつたとの被告人斎藤の供述は措信しがたい点があり、取調中は片手錠の状態であつたと認めるのが相当である。ところで、勾留されている被疑者が、捜査官から取り調べられる際に片手錠を施したままであるときは、反証のない限り、その供述の任意性につき一応の疑いをさしはさむべきであると解するのが相当であることは、さきに説示したとおりであるが、本件において、前記の如く、被告人斎藤が一審公判の証人に対し手錠の点について反対尋問をしていないことからすると、一審当初から自己の自白の任意性を争つて来ていた同被告人において片手錠の施用がさほど苦痛とは受けとめていなかつたのではないかとうかがわれ、片手錠の施用と斎藤の自白との間には因果関係があつたものとは認められず、自白の任意性には影響がなかつたものと認むべきである。そして、その余の正座の強制、暴行、供述の押しつけなどの供述については、被告人斎藤は、前示の如く、一審第一〇回公判(昭和二九年七月七日)において、既に、花谷、前両証人に対し、それぞれ正座を強要したこと、花谷刑事から髪の毛を引つ張られて殴れたことについて反対尋問しており、右前証人は正座の強制の点については否定はするが、自分が正座するので斎藤も正座していたかもしれない旨述べて必ずしも正座の事実は否定していないこと、並びに当初七日間も黙秘していた被告人斎藤が吹田事件のアリバイ、火炎びん準備行為を自供し、前に宮原操車場に勤務し解雇されたことがあつたためか追及されて、同志の逮捕にもつながる宮操事件、籾井事件について初めて自供するに至つたことについては、のちに警察の取調が終了しその影響力が薄くなつた検察官の取調の段階から再び調書への署名押印拒否、黙秘の態度に出ていることなどから考えて、右の自白にあたつて強い強制があつたのではないかと疑いが持たれることなどを考えると、前記正座の強制、暴行、供述の押しつけ等についての被告人斎藤の供述の信憑性を容易に否定することはできない。以上の点からしてみると、被告人斎藤の前掲供述には誇張されていて信用しがたい点のあることはうかがわれないではないけれども、前記正座の強制、暴行等がなされた疑いがあり、結局、同被告人は、このような不当な処遇による身体的、心理的圧迫に耐えかね、かつこれらの処遇の繰り返しをおそれて本件宮操、籾井両事件について供述するに至つたものではないかとの疑いを抱かざるを得ないから、警察の取調時における供述には任意性に疑いがあるというほかない。そして、検察官に対する番号1ないし4の供述調書を録取するに当つての検察官の取調は、いまだ警察署に身柄がおかれ警察の取調もなお行なわれている状況下においてこれと並行してなされたものであることが明らかで、斎藤において警察官による不当な処遇にかんがみ、検察官に迎合的に供述したのではないかと疑われるふしがあるから、右の検察官の取調は、警察における前示のような取調の影響力の存続する状況下でなされたものと認むべく、したがつて右の検察官に対する供述調書の自供に疑いがあるといわざるを得ない。

二、被告人木沢恒夫について

(一)  本件記録及び当審における事実取調の結果によれば、被告人木沢は、昭和二七年九月一五日別件の吹田事件で逮捕され、同年一〇月七日同事件で起訴されたのち、同年一一月四日大西事件で、同月二一日宮操事件でそれぞれ起訴、勾留され、同年一二月三日吹田事件、同月二四日大西事件及び宮操事件につきそれぞれ保釈決定を受け、一二月二五日釈放されたもので、その間における同被告人の本件大西、宮操両事件についての自白調書として原審が証拠として採用し取調をしたものは、次のとおりであることが認められる。

(1) 警察官に対する自白

番号

年月日

回数

取調官

(立会者)

取調場所

供述内容

丁数

1

27・9・27

第五回

平岡繁三

(井村正雄)

西署

宮操

一〇八二

2

9・29

第六回

(〃)

大西

一〇四四

3

10・3

井村正雄

宮操(面割)

一〇五五

4

10・3

第七回

平岡繁三

(井村正雄)

西署

宮操(面割)

一〇九九

5

10・6

第八回

平岡繁三

一一〇二

6

10・8

一一一一

7

10・11

(井村正雄)

大西

一〇五八

8

10・14

平岡繁三

〃(写真面割)

一〇七四

9

10・14

井村正雄

宮操(〃)

一一一九

10

10・30

福安寿雄

(成内貞義)

大西(参考人)

一〇七九

(2) 検察官に対する自白

番号

年月日

回数

取調官

(立会者)

取調場所

供述内容

丁数

1

27・10・10

第一回

別所汪太郎

(妻木龍雄)

西署

宮操

一〇〇八

2

10・17

第一回

〃 〃

(〃)

大西

九八八

3

11・4

第一回

〃 〃

(〃)

大阪地検

一〇〇九

4

11・6

第二回

別所汪太郎

(妻木龍雄)

大阪拘置所

宮操

一〇三四

5

11・6

第三回

〃 〃

(〃)

〃(面割)

一〇三九

6

11・7

第四回

〃 〃

(〃)

〃(〃)

一〇四一

7

11・20

第五回

〃 〃

(〃)

〃(補充)

一〇四二

なお、右供述調書のうち一審等判決が事実認定の資料に引用したものは、経歴関係では、検察官に対する番号2、宮操事件関係では検察官に対する番号1、4ないし7大西事件関係では検察官に対する番号2、4の各供述調書のみである。

(二)  被告人木沢が右自白の任意性を争う主張の要旨は、次のとおりである。すなわち、同被告人は、野上の第二四回、第二五回各公判において証人として、また当審第二五回公判において被告人として、「昭和二七年九月一五日吹田事件で逮捕されて曾根崎署に引致され、翌一六日西署(野上の公判の証人として、大淀署に移された旨証言しているが、当審で訂正)に移され畳の部屋で平岡刑事らに調べられたが私は黙秘していた。そのとき刑事から『黙秘権は認めん。共産党は法律を守らんやつだから、わしらもそういう法律を守らんのだ。』と言うていた。その日は取調のとき片手錠だつた。その日大淀署に移され、翌一七日大淀署の三階の一〇畳位の畳の部屋で平岡、井村両刑事から調べられ、最初あぐらをかいておつたところ、人の家へ来てちやんとすわらんかいと言われて正座させられ、しばらくすると手錠を前両手錠にされた。九月一七日午後大阪地検で弁解をきかれたが黙秘し、大淀署に帰つてまた両刑事から調べられたが、刑事の一人が最初おらなくて、途中来たり、また途中でいなくなることがちよいちよいあり、その間ずつと正座をさせられた。一七日に別所検事のところへ行つたときか、一八日に裁判官のところへ勾留手続に行つたときか、時間待ちで天満署で待つていたときに、花谷刑事に膝を蹴られた。一八日勾留尋問後大淀署で平岡、井村両刑事に同じ畳の部屋で調べられ、平岡が『人の家へ来たらちやんと畳の間だつたら正座するのが礼儀や、わしもするからお前もせえ。』というので、『これやつたら拷問やないか、拷問する気か。』と言つたところが、『こんなもの拷問のうちに入るか、親に代つてお前の性根を叩きなおすためにやつとることが拷問というのか。』と言い、平岡が最初は正座しだしたので、私も正座した。ところが一〇分か二〇分たつと平岡が電話がかかるとか、連絡とか言つて立つて行き、そういうことで平岡と、井村が交互に用事にかこつけて立つて行き、私は正座のままで午後五時頃まで続き、その間ずつと住所氏名も黙秘していた。私はしびれが切れ房へ帰るときに歩きづらく井村の肩をもつたり手すりに寄りかかるようにして房へおりて行つた。二〇日であつたか(その翌日が日曜日だつたというから二〇日ということになる)前両手錠で正座させられておつたところ、井村刑事が、後手錠にかえたので、重心がうしろに行き普通の正座しとる時よりもうんとこたえた。そして、『まだしやべらんのか。』と言つて、手錠についているひもを足の腿に巻きつけに来て、足の腿を両手で押え、耳元で大声でどなつたり、顔に息をふきかけたり、口がひつつかんばかりに顔を寄せて来て『お前の名前は何というんじや、よう言わんのか。』とか何べんも言うので、私も腹が立つて後手錠にされたままで井村の肩か腕のところへかみついたと思う。すると、『この野郎。』と言つて頬を二、三発どつかれ、私のうしろに回つて肩を押えたり、腿をもんだりされ、『お前みたいなやつは壁に鼻をひつつけて座つておれ、目をつぶつてよく反省しろ。』と言われ、夕方五時頃までやらされ、すねなんかすりむけて痛く、房へ帰つたときは、頭がふらふらして額からあぶら汗がにじみ出てきて、房へ入るなり『あいつが拷問しやがつた。』と大声でどなつて倒れるようにして房の中へ横になつた。翌二一日の日曜日は調べはなく、二二日も午前午後正座、後手錠のまま調室におかれ『早くしやべつて楽にせえ。』と言つて、あとは自分らで雑談して正座のくずれないよう監視し、正座がくずれると『ちやんとせえ。』と言つて手でなおされた。二三日午前から正座、後手錠で調べられていたが、鼻水が出て来て、刑事が見かねて『鼻紙をやるから鼻をかめ。』と言つて手錠をはずしてくれた。それで『鼻紙はいらん、わし持つとる』と言つて初めて刑事とものを言うたところ、『鼻紙どないした。』と聞かれて、うつかり『同志にもらつた。』と言つてしまつた。『しまつた。』と思つた。誰にもらつたかと追及され、また後手錠にして正座させられた。ふらふらだつたのと、鼻紙をもらつた人の名前を聞かれたのと迷惑がかかつたらいかんという思いと、しんどかつたので、名前と住所、本籍と吹田事件に参加したことだけ言つた。その調書には署名捺印した。右のように供述したところ、手錠をはずし、あぐらにさせ、煙草を吸わしてくれた。房へ帰つてから自分の意思に反して供述したことで情なくなつた。翌二四日最初片手錠、あぐらですわつて調べが始まつたが、私が黙秘したところ、『何べんでもゆつくり考えろ。』と言つて後手錠、正座にされた。刑事らは『えらかろうが、こんなものは拷問のうちに入らんのじや、昔の拷問いうたらもつともつとえげつないものだつた。』という話をしていた。午後もやはり同じ状態で調べられた。翌二五日西署に移され午後から二階の八畳位の畳の部屋で平岡、井村刑事に調べられた。調室に入るまでは片手錠で、調室に入るとすぐ後両手錠にされ、その日は絶対に正座は拒否しようと思つていたので、初め正座しないで足を投げ出していたところ、刑事らは後手錠のまま左右から押えつけ、足をまげて無理に正座させようとし、自分が正座させられまいとして足をばたつかせて暴れたため、レスリングのようになつた。そのため何回も身体をもちあげられて、下に落ちるとき、手をうしろにとられているので首や肩から落ちるようになつた。そのときシヤツがビリビリに破れた。それでも正座しなかつたので、その日は平岡、井村刑事もあきらめ『そんな気なら覚えておけ。』と言うていた。ところが、翌二六日の調べには平岡、井村のほか岡刑事が加わり、岡刑事がいきなり『お前はえらい暴れているそうやないか、そんなもの承知せん、もう一ぺん昨日みたいにやつてみい、わしは兇悪犯専門でやつとる。』とすごまれ、三人であぐらをかいている私の足をもつて正座させようとし、前日同様私も暴れたが三人に正座の形に押えつけられ、何時間位かわからないが、ふらふらになつて、大きな声で泣き出した。泣いてからのちに岡刑事が『わしらもうこんなことせんからお前もちやんと一ぺん調書ができかかつており、何もかもわかつているんだから、井村刑事のいうとおりにしたらええ、腹へつているやろうからパンを買うてくる。』と言つてパンを買つてきてくれたので、それを食べ、煙草も吸わしてくれ、あぐらにもさせてくれ、片手錠にしてくれた。そして、刑事が言うのをうなずくといつた調子で吹田事件についての調書が作られた。その日の調が終つたとき、平岡刑事から『お前のは吹田だけとちがう、宮操やいろいろあるんだ、よう考えとけ。』と言われ、翌日からはあぐらの姿勢で片手錠ぐらいだつたと思うが、それ以後は無理な取調はなく、刑事の言うとおりになつてうなずくだけで、宮操、大西、吹田事件についての調書が作られた、警察の供述調書に添付の図面は取調官が作つた下書きを写したものです、別所検事は警察調書などをもつていて、こうだなときき、私がうなずくと、それを事務官に書かせて調書を作つた。検事の調は警察での調を清書するような感じがした。検事調は夕方六時か七時頃からされることがあり、そんなときは夜の一一時半頃までかかり、南海電車の難波行きの終電車に間に合わなくなるといつて、事務官がとんで帰つたことが二、三回あつた。拘置所に移されたのち拘置所で検事調を受けたが、とにかく何もかも早うすんでしまわんかなという気持で、もう一度頑張つて言いたくないことは言わんでおこうというふうな気にはならなかつた。」と述べており、

これに対し、被告人木沢を取り調べた警察官の供述の要旨は次のとおりである。すなわち、平岡繁三は、一審第九回、当審第二七回各公判において、「九月一六日に木沢を逮捕して以来、日曜、祭日を除いて連日木沢を取り調べたが、取調中は、一般事件同様、逃走防止のため、腰なわか、片手錠のどちらかを用いたと思う。前または後両手錠を用いたことはない。取調中、木沢に『お互いに紳士的に座つたらどうか。』と言つて、双方正座で一時間程度取り調べたことはあるが、私もしびれてくるので、休憩してお互いあぐらをかいたのち、また正座して取り調べた。正座を強制したり、相手が正座しないからといつて力づくで正座させようとしたり、暴行を加えたというようなことは一切していない。しかし、宮操事件について自白してからは、緊張がとけるので、取調中もお互いに正座はしていない。九月二二日までは木沢は一切黙秘していたが、翌二三日になつて、木沢は警察の考え方は間違つている、我々は吹田事件に参加したことは正しいんだ、それを調書に書いてくれるなら話すると言い出したので、それではそれを自分で書いてくれということで、木沢は『吹田事件参加の動機』という書面を書き、それを調書の後に添付した。そのあとで木沢が煙草を吸わせてくれと言うので煙草を与えたことはある。二四日に鼻紙事件があり、木沢は留置場で激励されたためか供述をしないようになつたので通謀防止のため二五日に西署に身柄を移した。西署での調べで木沢のシヤツが破れたということはない。二六日から吹田、宮操、大西の各事件を自白したので、順次供述調書を作成した。供述調書添付の図面は木沢自身が書いたものである。」と述べており、

井村正雄は、一審第九回、当審第二八回公判において「木沢逮捕の翌日の九月一六日以来広岡部長と木沢を取り調べたが、取調中は手錠をかけず腰なわだつたと思う。取調中、双方正座するなりあぐらをかくなり自由にしていた。したがつて正座を強制したことはなく、相手が正座しないからといつて力づくで正座させようとしたり、暴行を加えたというようなことは一切ない。九月二二日までは木沢は黙秘していたが、吹田事件に参加した意義を調書にあらわすということから、木沢が自筆で書面を書き九月二三日の調書に添付した。ところが二四日にどういうわけかわからないが、供述の途中で供述を撤回し始め、留置場での通謀のおそれがあつたので、二五日に身柄を大淀署から西署に移した。二五日の取調中後両手錠にしたことも、木沢を正座させようとして後手錠のまま胴体を持ちあげて頭からさかさに落したというようなことも、正座を強制したこともない。九月二六日の取調に岡刑事も加わつたが、三人で木沢が暴れるのをむりに正座させたということもない。二六日から吹田、宮操、大西の各事件を自白したので供述調書を作成した、供述調書添付の図面や鉛筆の下書きはすべて木沢自身が書いたものである。」と述べており、

川上秋次は当審第二九回公判において「木沢が大淀署に留置されているとき、面割りのため、井内を連れて行つたことはあるが、木沢を足払いでひつくり返したというようなことはない。」と述べており、

福安寿雄は、一審第九回公判において「木沢の取調(一〇月三〇日付調書のみ)に際し、暴行、脅迫その他不当な取調をしたことはない。」と述べている。

(三)  ところで、本件記録、ことに前掲関係証拠を総合すると、被告人木沢が逮捕された昭和二七年九月一五日当時、被告人斎藤のみが火炎びん事件(最初吹田事件で逮捕勾留されていたが同年八月二三日釈放と同時に火炎びん事件で逮捕即日勾留された。)で勾留されていて、宮操事件については斎藤のみが同年八月二一日付供述調書において自供し、その関与者として本件被告人らのうち被告人木沢及び中村某(野上)の二人の名前のみが挙げられていたにとどまり、また大西事件については、斎藤のみが同年九月八日付供述調書において、被告人木沢が大西をやつつけると言うていた旨述べていた程度で、宮操事件及び大西事件の状況についての証拠が乏しい状態であつたこと、被告人木沢は、昭和七年三月三一日生れで当時二〇歳、昭和二七年九月一五日に逮捕されて以来被疑事実である吹田事件について黙秘を続けていたが、逮捕後八日目の同月二三日吹田事件について自供し、翌二四日自供の途中自供を撤回し、同月二六日再び自供し、翌二七日宮操事件について自供し、爾来、吹田、宮操、大西の三事件について交互に入り組んでの取調の都度警察官、検察官に対し終始(拘置所に移された後も)自供を続けていたことが認められるところ、被告人木沢が自供するに至つた動機に関する前示供述、すなわち、長時間、しかも連日にわたる正座の強制、前後両手錠の施用、殴る、蹴るの暴行などの拷問と供述の押しつけにより、これに耐えかねた結果自供するに至つたとの供述については、被告人木沢は、既に一審第九回公判(昭和二九年五月二八日)において、取調警察官であつた証人平岡繁三に対し、「逮捕の翌日頃から取調の際連日正座させられ、これに耐えられなくなつて『拷問するのか』と抗議したところ、証人は『そんなものが拷問か、お前は法律を認めないから、おれも法律は認めない。』と言い、正座を拒んであぐらをかくと、私の足を井村刑事と二人で正座の形にして足を紐でくくり、前手錠を後手錠に変えたので、私が足をくずそうとしたところ、証人は私をうしろに倒し、また起したりして何回もそういうことをしたではないか、親に代つて根性を叩き直してやると言つたではないか、井村刑事と二人で私をうしろ手に持つて体を吊り上げたではないか、暴れたのでシヤツがボロボロになつたことはどうか」と反対尋問し、同じく証人井村正雄に対し、「手錠の紐で足をくくろうとしたので、証人の腕にかみついたところ私の頬を叩いたではないか、それでの俯伏せに倒れたところを持ち上げて正座させたではないか、壁の方へ向けさせ『お前のど根性を叩き直さにやならん。』と言つたではないか、私を吊り上げたではないか、『親に代つて制裁するのが拷問か。』と言つたではないか。」と反対尋問しており、他方前掲平岡証人は、木沢が九月二二日までの八日間黙秘していたことや、取調中木沢が正座していた事実を認めながら、強制強要などの点を否定するのであるが、「お互いに紳士的にすわつたらどうかと言つて双方正座で一時間程度取り調べたことはあるが、私もしびれてくるので、休憩してはまた正座で取り調べたが、自白してからは緊張がほぐれるのでお互いに正座していない。」と述べ、黙秘中は双方正座し、自白をすれば足をくずさしたことを自ら認めており、これは木沢が「供述したらあぐらにさせてくれた。」というのと符合するのであつて、黙秘するが故に、換言すれば自白を押しつけるために正座を強いたのではないかとの疑いが濃く、正座の時間が平岡証人のいうように一時間位であつたとしても、それが繰り返されたときは、当時三二歳位であつた平岡とはちがい、二〇歳の木沢にとつて相当苦痛であつたことは十分考えられる。また、手錠の施用について、平岡証人は腰なわか片手錠であつたと思うといい、井村証人は腰なわだつたと思うというが、「供述したところ手錠をはずしてくれた。」という木沢の供述も、右の正座の場合における警察官の態度と照らし合わせると、一概に排斥しがたく、両手錠施用の状態で取り調べられたのではないかとの疑いも消え去らない。もつとも、木沢の前掲供述には若干誇張があるかもしれない。しかし、正座の強制、両手錠の施用の疑い、したがつてこれに伴う暴行等のあつた疑いのある点については、その供述するところの信憑性も否定しがたいところであることから考えると、結局、木沢は、このような不当な取扱いによる身体的心理的圧迫に耐えかねて、吹田事件について供述し、その後も、その繰り返しをおそれて、宮操事件、大西事件についても供述するに至つたものではないかとの疑いを抱かざるを得ないから、警察の取調時における供述には任意性に疑いがあるというほかない。そして、検察官の取調のうち、身柄が警察署に留置されているときの取調は、警察の取調もなお行なわれている状況下においてこれと並行してなされたものであることが明らかで、木沢において、警察官による不当な処遇にかんがみ、検事にさからうと、また刑事にやられるということをおそれて、迎合的に供述したのではないかと疑われるふしがあるから、その際の検察官の取調は、警察における前示のような取調の影響力の存続する状況下でなされたものと認むべく、したがつて、前記検察官に対する番号123の各供述調書の自供にも任意性に疑いがあるといわざるを得ない。

しかしながら、昭和二七年一一月六日に大阪拘置所に移監されてからののちの検察官の取調は、身柄の看守者として、捜査とは無関係な第三者である拘置所の職員が立ち会い、警察の影響から離れて取り調べられたものであり、その検察官の取調に暴行、脅迫等の不当な取扱いはなく、その取調による検事調書を検討しても警察での単なる繰り返しでないことが明らかであるから、前掲被告人木沢の拘置所での検察官の取調に関する供述を参酌しても、前掲検察官に対する番号4ないし7の各供述調書の自供には任意性があるものといわざるを得ない。

なお、同被告人は起訴後第一回公判廷において、大西方にラムネ弾を投入したことは認めており、また第一次控訴審の検証現場においては宮操事件につき種々説明していることは本件記録により明らかであるが、これらの点を考慮しても右認定を左右するものではない。

三、元相被告人野上(現姓宮沢)銀次郎について

(一)  本件記録及び当審における事実取調の結果によれば、野上は、昭和二七年九月一六日午後七時五〇分本件宮操事件で緊急逮捕され、同年一〇月八日同事件で起訴され、翌二八年二月一一日保釈決定を受け、同年三月一二日釈放されたもので、その間における同人の自白調書として原審が証拠として採用し取調をしたものは次のとおりであることが認められる。

(1) 警察官に対する自白

番号

年月日

回数

取調官

(立会者)

取調場所

供述内容

丁数

1

27・9・26

第二回

広田正雄

十三橋署

経歴等

一二三一

2

9・29

第三回

〃 〃

(青木浅雄)

宮操

一二三六

3

10・2

第四回

広田正雄

天満署

一二四四

4

10・4

第五回

〃 〃

十三橋署

一二五七

5

10・11

第六回

〃 〃

(古池泰博)

一二六五

6

10・15

第七回

古池泰博

一二七六

(2) 検察官に対する自白

番号

年月日

回数

取調官

(立会者)

取調場所

供述内容

丁数

1

27・10・6

第一回

別所汪太郎

(小林清隆)

十三橋署

宮操

一一九八

2

10・7

第二回

別所汪太郎

(妻木龍雄)

十三橋署

宮操

一二一三

3

10・7

第三回

〃 〃

(〃)

一二二四

4

11・5

第四回

〃 〃

(〃)

大阪拘置所

黙秘

一二二七

なお、右供述調書のうち、一審判決等が事実認定の資料に引用したものは、宮操事件関係について検察官に対する番号1ないし4の各供述調書である。

(二)、(1) しかし、右供述調書中、検察官に対する番号4の供述調書は、野上の署名指印があるけれども、黙秘を内容とするもので、刑事訴訟法三二二条一項に規定する形式的要件を欠くものであるから、任意性判断の資料としてならばともかく、右条項による証拠能力があるとはいわれない。

(2) 右(1)の供述調書を除くその余の供述調書の任意性について野上が自白の任意性を争う主張の要旨は、次のとおりである。すなわち、同人は、自己の公判における被告人として、また当審二二回公判における証人として「昭和四七年九月一六日扇町公園の集会の際逮捕され、一旦曾根崎署に引致されたのち南署へ移され、同月一八日午前中、同署の六畳か八畳の畳の間で広田、青木両刑事に取り調べられた。初め前両手錠であぐらをかいていたが、黙秘すると後両手錠にされ、青木刑事が『おれも正座するからお前も正座せよ。』と言い、それほど長時間ではないだろうと思つて応じたところが、青木刑事はほんの二、三分か五分位もすると、用事があるようなふりをして立ちあがり、戻つてくると正座をしないので、自分も正座をやめようとすると、両刑事が『ちやんと座るんだ。』と言つて腿のあたりを押えて正座を続けさせられ、その間ずつと『名前を言え。』と言われた。房に帰されるときは一人では立つて歩けず、しびれをなおす余裕も与えられないで、青木刑事に片腕をかかえられてつれて行かれた。その日十三橋署に移され、翌一九日午前九時頃からは十三橋署の二階の十五畳位の畳の部屋で廊下側の窓に毛布二枚を張り廊下から見えないようにして、広田、青木、古池刑事らに調べられた。調べかけのときは前両手錠だが、黙秘すると後手錠にしてずつと正座させ、自分が弁護士に面会させてほしい、と言うと、『お前みたいなやつのところへ弁護士なんかくるものか。』と言い、勾留理由開示を請求したいと言うと、『生意気言うな。』と言つて、逆に正座している足の腿を青木、古池刑事らがゆさぶつたり殴つたりし、あぐらをかこうとすると太腿をもむということがくり返され、どういうふうになるのかという心境になつた。房に帰つて昼食を出されたが、このまま殺されるんだつたら自分で死んだほうがましだと思つて抗議のため大声で断食宣言をした。午後勾留尋問があつたが、その際に国民救援会か弁護士に連絡してほしいと言つたと思う。その日の午後、その後の取調も午前と同様であつた。それから何日目であつたか、身体が完全に衰弱しているだけでなくて、拷問に抗議すると言つたら、青木刑事が『生意気言うな、拷問とはこんなものじやないんだ。』と言つて、とび上つて私の腿の上に身体をどすんと落したので、私は悲鳴をあげて後手錠のまま倒れると、馬乗りになつてあたりかまわずくすぐり、皆で支えて起すと、私の足の甲の皮がペロツとむけて肉が出、これにヨーチンをぬつて、また毛布の上に正座させられた。そのときに私は喀血した。刑事らはこのまま何も食わずにいたら死んでしまうかもしれんと思つたのかもしれないが、牛乳を持つて来て後手錠のままの私に無理に牛乳を口から流し込み、夜はおかゆを作つて同じようにされた。それで私はハンストをあきらめた。しかし、ひどい下痢が始まるとともに、腫れ上つた腿が破れたようになつて、そこへばい菌が入り、完全に化膿して一層ひどくなり、着ていたものは引きさかれ、赤チンのためズボンは所々膿と赤チンでひどいものになつてしまつた。医者にみせてくれと頼んだが、刑事らは医者にもみせず、できものについては、青木刑事が『そんなもの切つてしまえ。』と言つて、カミソリの刃を貸してくれたので、それで腫れた個所を切つたところ、ばいきんが入り、一層ひどくなつた。それでも取調が続けられ、名前と住所を言えと追及された。それで、断食を始めて六日目か七日目位に断食をやめたと思う。毎日毎日責められ神経衰弱になつて、ついに屈服して、九月二六日に氏名と経歴、家族歴なんかを言つた。氏名の黙秘をとくや、刑事らの態度は一変し、あぐらをかくことを許し、手錠をはずし、『煙草を吸え。』と言い、青木刑事は『お前おなかすいたろう。』と言つてパンを買つて来てくれた。窓を覆つた毛布はそのときはずしたかどうかは記憶にないが、それ以後ははずれたと記憶する。ところが、次に事件のことについてきかれて、これを拒否すると、また正座させられ、後両手錠にされた。その後の取調も供述を拒否すると、また正座、後手錠にされるため、刑事らが斎藤、木沢の供述調書を元にしていうままに順次認めて供述調書を作られた。一〇月上旬十三橋署で椅子に腰掛けた状態で別所検事に調べられた。その席には刑事は同席せず、肉体的に無理はなかつたが、黙秘すると、あとでまた刑事らにやられると思つて拒否できない状態であり、その取調は夕方近くに呼び出されて夜の一〇時か一〇時半近くまでやられたことがある。検事調べの後起訴され、その後刑事の取調があり、一〇月下旬頃古川弁護士が面会に来てくれ、その二、三日か四、五日後に差入があり、その翌日と思うが一一月五日拘置所へ移された。弁護士の面会と差入れで元気がつき、それと警察から離れたという気持から拘置所へ移された日に別所検事の取調があつた際、また黙秘するとともに警察で受けた拷問について訴えた。拘置所へ移るまでに一度医者が来てみてもらつた。」と供述している。

これに対し、野上の取調に当つた警察官の供述の要旨は次のとおりである。すなわち、広田正雄は、一審第九回、野上の第三一回、第三二回、当審第三〇回公判において、証人として、「私が野上を調べたのは九月一八日が最初で南署の畳の部屋で私と青木刑事とで調べた。取調の際には手錠は片手錠もしておらず、腰繩で、正座を強制したようなこともなく、供述拒否権も告げた。野上のシヤツはそのとき一寸裂けていたように記憶する。逮捕するとき格闘したと聞いている。野上は黙秘し、黙秘の調書を作成したが、野上は署名押印をしなかつた。九月一九日午前中、私は松田正孫という参考人を調べ、野上は青木刑事が調べたと思うが、勾留尋問の待機をしていたので本格的には調べておらず、したがつて、その日は私と青木、古池刑事の三人で野上を調べたようなことはない。九月二〇日以後二六日までの間十三橋署二階の幹部宿直室で青木、古池刑事と野上を調べたが、その間取調室の廊下の窓に毛布を張つたことはない。それ以後に西日がさすというので一回張つたことがある。右の間、青木刑事が後手錠のままの野上の足の腿の上に身体を落すような暴行をしたことも、倒れた野上の上に馬乗りになつてくすぐるというようなことも、正座を強制して続けさせたこともなく、正座をするもくずすも自由であり、また、その間、野上に手をかけたことも、野上の足の指先の皮がむけたことも、野上が喀血したこともなかつたと思う。また野上の大腿部の横のほうに腫物ができたということも、青木刑事の持つて来たカミソリの刃で野上が腫物を切つたということもないし、野上がハンストをしたことも、野上の鼻をつまんで牛乳やおかゆを口から流し込んだということもない。九月二六日に野上が経歴について供述したのは、一〇月一日に衆議院議員の選挙があつて、野上が投票したいという気持があつて、それであれば氏名を言わなければならないということで、野上は半日位考えたんじやないかと思うが、その挙句投票に行くということで(野上は守口市において選挙権があるということであつたが、後日調査の結果、ないことが判明し、結局は投票には行かなかつた。)名前、住所、経歴、家族関係を話すようになつたと記憶している。そのときは事実関係については今は話せないと言うていた。野上が氏名を言つたので正座を解き、手錠をはずしたというようなことはないし、事実を黙秘したのでまた正座させて後両手錠にしたということはない。手錠はかけず腰繩で、正座するもしないも自由の状態で調べた。九月二七日は午前中調べたが、事実については述べず、二八日は日曜日で取調をせず、二九日午前の調のとき野上は意外にも初めから『話します。』と言つて事実の概略について初めて述べたので、これを調書として作成した。その調書に添付した図面は野上が自分で書いたもので、警察官が下書きをしたり、内容を教えて書かせたものではない。一〇月二日、四日、一一日の取調に当つても、野上は拒否することなく述べた。取調中、野上に対し何ら正座を強制することも、手錠をかけるようなことはしていない。勾留の前後に野上から国民救援会に連絡してくれといわれ、奥野捜査主任にそれを報告し、後日奥野主任から連絡したと聞きましたが、当審の証人に出るについて検事から勾留尋問の調書の写を見せてもらつたところ、野上が国民救援会に通知してくれと要求して裁判所の方から通知したことになつているのを確かめた。」と述べ、

青木浅雄は、野上の事件の第三一回公判において、証人として、「私は広田主任の補助役として書記役の古池刑事らと野上を宮操事件で取り調べたが、野上ははじめ黙秘していた。勾留一〇日目位の朝、どつちみち黙秘するだろうと思つて留置場から連れ出したところ、突然『もう話しますわ。』と言つて自白しかけたので、意外に思つた。話しかけてからはすらすら自供した記憶がある。九月二九日付供述調書添付の図面は、その日の取調べの際、野上が道順を説明するために書いたものである。取調中、野上に正座を強制したことはなく、本人の自由にさせていた。また手錠は房の出し入れの時に使用したが、取調中は、腰ひもがあれば腰ひもだけ、腰ひもがないときは片手錠位かけたかもしれないが、その点はつきりしない。当時警察の設備は現在では想像もつかないくらい悪く、調べ室といつても、椅子の部屋はなく、宿直室など空いている部屋を使つて調べていた。この種の事件については一般の事件とは違い取扱には特に注意していた。」と述べており、

古池泰博は、一審第一〇回及び野上の事件の第三一回各公判において、証人として、「広田、青木両刑事が十三橋署で野上を取り調べたとき、応援員として、その取調の全部に立会つたというわけではないが、立会つたことがある。自分が立会した範囲では、野上はすらすらと供述しており、あぐらをかくか正するかは野上が好きなようにしていた。取調べ室の窓に毛布を張るとか、正座を強要するとか、ふんづけるとかいうようなことはしたことはなく、また野上が足の指先とか、腰に傷をしたり、断食をしたり、シヤツに血をつけたりしていたこともない。ただ野上はやせていたので達者そうではないと思つていた。」と述べている。

(三)、ところで、本件記録、ことに前掲関係証拠を総合すると、野上が逮捕された昭和二七年九月一六日当時、被告人斎藤、同木沢がいずれも吹田事件で逮捕勾留されていて、本件宮操事件については、斎藤が同年八月二一日付警察官に対する供述調書において自供し、本件被告人らのうち被告人木沢及び中村某(野上)の二人がこれに関与している旨を自供していたのみで、野上が九月二六日に家族経歴関係について自供した翌日の九月二七日に、被告人木沢が同日付警察官に対する供述調書において宮操事件について自供し、銀ちやんという名で野上もこれに関与している旨を供述していること、野上は、昭和五年三月生れで当時二二歳、昭和二七年九月一六日に逮捕されて以来黙秘を続けていたが、前掲の自白調書の経過が示す如く、逮捕後一〇日目の同月二六日に初めて家族経歴関係について自供し、事実関係については供述することを拒否していたが、一三日目の同月二九日(月曜)に至つて本件宮操事件について供述し始め警察官、検察官に対し自供を続けたのち、同年一一月五日大阪拘置所に移監されるや、当日の検察官の取調に対し再び黙秘をし始めたことが認められるところ、野上が自供するに至つた動機に関する前示供述、すなわち、長時間、しかも連日にわたる正座の強制、前後両手錠の施用、殴る、膝上への体落し等による強制に耐えかねた結果自供するに至つたとの供述については、野上の第三〇回公判の証人古川毅弁護士は、「昭和二七年一〇月末頃国民救援会からの依頼により十三橋警察に留置中の野上に面会した。野上はえび茶色のカツターシヤツとズボン姿でやせ衰えて結核の第三期のような容ぼうで、シヤツはボロボロというよりズタズタにさけ所々点々と赤チンや血啖のあとがついてうす汚れ、ズボンは膝頭のへんから下が真赤に赤チンで汚れ所々血啖のあとがついていた。両足の指の根元のあたりは皮がはげていて、野上は正座させられたためにこうなつたと言うていた。赤チンをぬつている膝のあたりを見せてもらうと赤黒く腫れ上つてひどい状態になつており、尻の右腰骨の少し下のあたりを見ると化膿しておできができていて痛そうにしていた。野上は、正座させられてその膝の上で刑事が足踏みしたり、抗議のため絶食のハンストをしたら三、四人で押えつけられて一人が鼻をつかみ、息をするため口をあくと、そこからミルクを放り込まれた、と話をするので、まだこういうことがあるのかと驚いた。」と証言しており、また野上は、一審第九回公判(昭和二九年五月二八日)において取調警察官であつた証人広田正雄に対し、正座させられたこと、後手錠のまま正座させられたこと、調室の窓に毛布をかけたこと、足をくずすと青木刑事に腿を蹴られたこと、刑事三人で正座させられたこと、野上が血を吐いたことなどなかつたかと反対尋問し、同じく証人古池泰博に対し、取調の際長時間の正座を強要したこと、青木刑事とともに野上の股をもんだこと、青木刑事とともに野上の肩を小突き髪を引つ張つたり背中を殴つたり、野上の体を左右にゆすり、脚がくずれると横から蹴つたり股を殴つたりしたこと、野上が倒れるとその膝を持ち、もう一人は足を持ち、また首を持つて起して正座させたことなどしたことはないかと反対尋問しており、本件記録及び当審における事実取調の結果によれば、野上は一審第三回公判後の昭和二八年二月一一日保釈出所後直ちに肺結核のため入院し、昭和二九年四月二三日の第八回から同年一〇月二七日の第一二回公判まで出頭したが、その後再び入院して結核の治療につとめたことが認められること、並びに前記の如く野上が逮捕された当時斎藤が宮操事件関係者として中村某(野上)なる名のみをあげ、斎藤自身は宮操事件については現場への案内役をかつただけですぐ籾井事件に参加していて宮操事件の詳細についてはわからないところから、警察の野上追及の姿勢が相当厳しかつたのではないかと考えられることなどを照し合わすと、野上の供述中、膝に体落しをされたとか、廊下から見えないように毛布を張つたとかいう点はいささか誇張あるいは思い違いと思われないでもないが、その余の点についてはその供述するところの信憑性も容易に否定しがたいところであり、前記広田、青木証人らの供述によつても、事実関係について一二、三日も黙秘していた野上が供述を始めるに至つた動機とその状況について合理的な説明がなされていないことを考えると、結局、野上は前示のような正座の強制、両手錠の施用、その他の身体的心理的圧迫に耐えかねて供述するに至つたものではないかとの疑いを抱かざるを得ないから(もつとも、野上は、当審第二二回公判において、保釈出所後に拷問による傷あとについて医師の診断を受けておらず、また拷問による傷などで汚れたシヤツ、パンツ、ズボンは保釈後東京に移つて(転居は昭和二九年一一月一日頃)からしばらく家に置いていたが、母が押入れのボロと一緒に屑屋に売つてしまつた、と証言している。警察での拷問を面会に来た古川弁護人にも訴え、公判においても自白の任意性を争つていた野上が、このような重要な証拠を保存するなり弁護人に渡すなりしなかつたという点に不審な点はあるが)、警察の取調時における供述には任意性に疑いがあるというほかない。そして、検察官の取調は、いまだ十三橋署に身柄がおかれ、警察の取調もなお行なわれている状況下においてなされたもので、野上も述べるように検事にさからつて黙秘すると、また警察の取調がなされて刑事らにやられることをおそれ、結局これにさからわずに迎合的に供述し、その後拘置所に移されてからは警察から離れたという気持から拘置所での検事の取調の際には黙秘したというのであるから、検察官の警察署における取調は、警察における前示のような取調の影響力の存続する状況下でなされたものと認むべく、したがつて検察官に対する自供にも任意性に疑いがあるといわざるを得ない。

四  元相被告人出上桃隆関係について

(一)  本件記録及び当審における事実取調の結果によれば、被告人出上は、昭和二七年九月二九日午後二時三〇分宮操事件で逮捕され、同年一〇月二一日同事件で起訴されたのち、同年一一月四日大西事件で起訴、勾留され、翌五日大阪拘置所に移監され、同年一一月二二日別件の吹田事件で起訴、勾留され、同年一二月三日吹田事件で、同月二四日大西事件及び宮操事件でそれぞれ保釈決定を受け、同月二五日釈放されたもので、その間における同人の本件宮操、大西両事件についての自白調書として原審が証拠として採用し取調をしたものは次のとおりであることが認められる。

(1) 警察官に対する自白

番号

年月日

回数

取調官

(立会者)

取調場所

供述内容

丁数

1

27・10・2

第二回

井村正雄

東署

経歴

九一九

2

10・4

第三回

平岡繁三

宮操

九二二

3

10・6

第四回

井村正雄

九三四

4

10・8

第五回

九四六

5

10・8

第六回

西条宗次郎

大西

九五三

6

10・13

第一〇回

平岡繁三

九七九

7

10・15

第九回

井村正雄

宮操(面割)

九七一

(2) 検察官に対する自白

番号

年月日

回数

取調官

(立会者)

取調場所

供述内容

丁数

1

27・10・11

第一回

別所汪太郎

(妻木竜雄)

東署

宮操

八六七

2

10・28

第二回

〃 〃

(〃)

大西

九〇〇

3

11・4

第三回

〃 〃

(〃)

大阪地検

九一四

4

11・6

第二回

〃 〃

(〃)

大阪拘置所

宮操(補充)

八九三

5

11・6

第三回

〃 〃

(〃)

〃(面割)

八九九

6

11・7

第四回

〃 〃

(〃)

〃(〃)

九一六

7

11・20

第五回

〃 〃

(〃)

〃(補充)

九一七

なお、右供述調書のうち、一審判決等が事実認定の資料に引用したものは、経歴関係では警察官に対する番号125の各供述調書、宮操事件関係では検察官に対する番号14567の各供述調書、大西事件関係では検察官に対する番号23の各供述調書のみであり、起訴後当該事件について作成された供述調書は、宮操事件関係についての検察官に対する番号4ないし7の供述調書四通である。

(二)  被告人出上の右自白の任意性に関する主張の要旨は次のとおりである。すなわち、同被告人は、野上の第二九回公判及び当審第二三回公判において「九月二九日宮操事件で逮捕されて天満署に引致され弁解録取をとられ、これに署名捺印し、すぐ東署に連れて行かれて留置された。翌三〇日東署の一階の二畳か三畳の畳の部屋で平岡部長と井村刑事から黙秘権を告げられ、手錠をはずして朝から夕方まで調べられ、昼飯は房へ帰つてした。東署の留置人カードには午後一時四〇分から午後六時一五分頃までとなつていて午前中の調べはなかつたようになつているということですが、私は朝からだつたと思うのです。刑事の一人が『おれも正座するからお前も正座せよ。』と言つて長時間正座させ、足が痛くて足をくずしたところ、二人の刑事が『くずしたらあかん。』と言い、井村刑事が私の痛うなつた足をゆさぶつて『どうや、もうそろそろ話そうじやないか。』などと言い、肩を上から押えつけたこともあつた。丁度一〇月一日が衆議院選挙で、刑事は『選挙に行かんということは国民の義務に反するじやないか。』とか『名前を言わんことにはどこの誰かわからんのに選挙に連れて行くわけにはいかん。』とも言うていた。それでもその日は住所氏名を言わなかつた。長時間の正座で足が痛くて普通に歩くことができず、刑事二人が房まで肩を貸してくれたと思う。ただその正座というのは、足が痛くなつてくずそうとすると、『おれが正座をしているのに、足をくずすのは失礼じやないか。』と言つて正座を求めただけで、脇の下をかかえて力づくでむりやり正座させたのではない。相手の刑事は二人おるので、一寸用事があると言つて外へ出ては交替していた。このような正座の取調べが二、三日続いたが、取調中は手錠をかけられず、一〇月二日以後は刑事らは正座せず、最初私にだけ正座させ、こちらがものを言い出すと、足をくずしても文句を言わず、供述の途中でこちらが黙ると、『どうや、もう一回考えなおすか。』と再び正座をさせかねないような口振りをして脅した。しかし、その後正座させられたことがあるかどうか記憶がない。また黙秘していると、相手は、『お前だけ黙秘すると裁判で情状が悪くなるぞ。』とか『名前を言つたら煙草を吸わせてやる。』などと言い、事実、供述を始めると、煙草を吸わせてくれた。井村刑事は、取調中度々座机をへだてて対している私めがけて千枚通しを投げつけてくることがあつて、私は必死になつてそれを避けた。また千枚通しを正座している膝の間の畳に突き立てたりして脅した。そのような千枚通しを投げたり、突き立てることは、黙秘しているときのみならず、供述を始めてからもあつた。住所氏名を言うようになつたり、宮操事件及び大西事件について自供したのは、長時間正座させられ、足が痛かつたこと、千枚通しを投げつけるなどして脅されたこと、他の者が自白しており、しやべらなくても裁判にかけられると思つたこと、当時、選挙で共産党の議席が零になり、シヨツクを受けたことなどから言えば気楽にさせてくれると思つたからです。警察ではこちらの言うことをそのまま調書にとつていたと思う。警察の調書に添付の図面は書けと言うのでええかげんに書いた。別所検事は、警察調書を見て事件の内容を知つており、こちらが言葉につまると、ああやろが、こうやろがと言い、事務官に口述して調書を作らせた。検事の取調べのときには警察官は同席せず、その取調べに無理はなかつたが、検事が東署へ来ると、東署の偉いさんまでへいへいしているし、こちらは二〇歳そこそこで圧倒されてボーツとなつてしまつた。」と供述している。

これに対し、出上を取り調べた警察官は大要次のとおり供述している。すなわち、井村正雄は、一審第九回及び当審第二八回公判において『出上逮捕の翌日の九月三〇日に、その日は午前中は確か平岡部長と西署で木沢の取調べをして、午後から東署の一階の四畳半位の宿直室で私一人で出上を調べたと思う。供述拒否権を告げて取り調べたが、私の質問に対して出上は『言えない。』とか『答えられない。』とかいうことだつた。その調書には指印だけして署名はしなかつた。一〇月一日は検察官へ送致の日で取調べをしていない。一〇月二日の午後裁判官の勾留尋問後、東署で私一人で出上を調べたところ、供述を拒否するという態度はなく、すなおに取調べに応じ、その日から一〇月一五日までの間、私または私と平岡部長とで取り調べたときには全然否認するということはなく、順次宮操事件、大西事件について自供していつた。取調べ中は、腰なわだけで手錠はせず、正座を命じたこともない。そのため出上は自ら正座するなり、あぐらを組むなり自由にしていた。自分が出上に千枚通しを投げつけ、あるいはこれを畳に突き立てるなどしたことはない。また出上に煙草を与えたことはないが、出上が取調室で煙草を吸つていたかどうかわからない。」と供述しており、

平岡繁三は、一審第九回及び当審第二七回公判において「九月三〇日の取調べには私は関与していない。一〇月一日、二日も取調べはしていない。私が出上の取調べに関与し始めたのは一〇月三、四日頃で、それから一〇月一四日頃までの間、主として井村刑事と一緒に調べ、一回だけ西条刑事が調べた。私が取調べに当つた当時、出上は既にすなおに供述をする態度で順次宮操事件、大西事件、吹田事件について自供していつた。木沢の取調べのときは私が正座して木沢にも正座するように言うたことはあつたが、出上に対してはそのようなことはなく正座を強制したことはない。取調べ中は、腰ひもか片手錠位だつた。取調べ中、井村刑事が出上に千枚通しを投げつけるとか、これを畳に突き立てたというようなことはない。」と供述しており、

西条宗次郎は、一審第一〇回公判において「出上を取り調べ第六回供述調書を作成した。取調べに当つて供述拒否権を告げ、暴行、脅迫、その他不当なことはしておらず、読み聞けして出上が署名指印した。」と供述している。

(三)  しかし、(1)出上自身も認める如く、取調べ中は手錠をかけられていないこと、(2)出上は、井村刑事と座机をへだてて相対しているとき、同刑事から度々千枚通しを投げつけられ、その都度体をかわしてこれを避けたといい、また正座している膝の間の畳の上に千枚通しを突き立てられたりしたというが、一メートル前後の位置から千枚通しを投げつけられてこれを避け得るということは考えがたく、また机をへだてている出上の膝の間に千枚通しを突き立てるということは至難のことであつて、出上の右主張は甚だ合理性を欠き措信しがたいものであること、(3)出上の九月三〇日の取調状況に関する供述については、前記当審証人平岡繁三、同井村正雄の証言によれば、同日午前中平岡、井村両刑事は西署で木沢の取調に当り、午後は井村刑事一人が東署で午後一時四〇分頃から午後六時一五分頃まで出上の取調に当つたことが認められるから、当日朝から調べられたとか、平岡、井村の両刑事に調べられたという出上の主張は措信しがたい。ただ井村刑事に正座を強制されたかどうかの点については、出上は一審被告人として井村刑事の証人尋問に際しこの点についての尋問はしておらず、井村刑事は一審及び当審証人としてその事実はなく正座するもしないも自由にさせていた旨供述し、当審で取り調べた出上の井村巡査に対する昭和二七年九月三〇日付供述調書によれば、出上は井村巡査の質問に対し『言えない』など言い宮操事件には関係ない旨の供述をしていることに徴すると、当日果して正座を強制されたものとは認めがたいこと、(4)本件記録によれば出上が逮捕された当時は、既に木沢が宮操事件について自供し、また出上の逮捕当日に木沢が、その翌日井内が大西事件について自供し、いずれの自供にも出上がそれぞれの事件に関与していることを供述した調書が作成されていたことが認められること。(5)出上は野上の事件及び当審の証人として、一〇月一日及び二日は朝から夕方まで東署で調べられたというが、右出上並びに前記当審証人井村及び平岡の証言によれば、出上は、一〇月一日午後一時三〇分頃大阪地検において検事の弁解録取、及び一〇月二日大阪地裁において裁判官の勾留尋問を受け、その際いずれも宮操事件についての被疑事実を認める旨の供述をしたことが各調書に録取されており、出上は野上の公判の証人としてこれについて全然言及せず、当審証人としても右調書の署名指印を自己のものであることを認めながらも、その事実については記憶がないと供述していることが認められるから、出上の前記主張はあいまいであるのみならず、当初黙秘ないし否認していたことを警察の強制の影響によつて検察官に対して自白したというのであれば、かかることは任意性を争う当人にとつて重大なできごとであり、たとえ一〇年余または二〇年近く経過したのちであつても、無念やる方ない気持で記憶していて然るべきであると思われるのに、これを記憶していないということは、検察官に対し自白するに至つた動機として警察官による強制が大きな動機となつているとはいわれないのではないかと考えられること、(6)前記当審証人井村及び平岡の証言並びに一件記録によれば、九月三〇日に井村刑事の取調に対し黙秘ないし否認の態度をとつていた出上が、一〇月一日午後の検察官の弁解録取に際して初めて事実を認め、つづいて翌二日の裁判官の勾留尋問の際にも同事実を認め、勾留尋問後帰着して井村刑事が取り調べた際には経歴家族関係について述べたのち、「宮原操車場の列車妨害事件に参加したことなどについては後刻申し上げます。」と供述し、翌三日頃から宮操事件について自供していること、すなわち警察での自白は検察官、裁判官に対する各自白に引き続いてなされたものであることが認められるのであつて、これに前記(4)の事情を考え合わせると、宮操事件に関する出上の警察官に対する自白は警察官による暴行、脅迫、甘言などによるものとは考えられず、井村刑事の「裁判官の勾留尋問後取り調べた際には、出上はすなおに取調に応じ供述を拒否するという態度ではなく、以後順次宮操事件、大西事件について自供していつた」との当審における証言は十分この間の事情を物語るものであること、(7)右一〇月二日以降の取調べについては、(5)の事情からして、正座を強制したり、自供することを押しつけたりしていないという平岡、井村の証言のほうが信用性があり、この点についての出上の供述は採用しがたいこと、(8)ことに大西事件についてみれば、出上は警察官、検察官に対して同事実を自白したというにとどまらず、求令状による裁判官の勾留尋問の際にも同事実を認め、さらに同年一二月二三日の一審第一回公判においてさえほぼこれを認めていることは、右事件についての供述が出上の任意に出でたものであることを推測せしめるものであること、(9)検察官の取調べについては、警察調書をそのままくり返したが如く主張するが、検察官に対する自白の内容はその供述調書によつて明らかな如く警察官に対する自白のくり返しではなく、さらに詳細な供述をしており、その取調べに無理のなかつたことは出上自身認めるところであること、などを合わせ考えると、前記出上の警察官及び検察官に対する供述調書の自供は任意性があるものと認めるのが相当である。

(四)  起訴後の調書について

さきに指摘した如く、前記検察官に対する供述調書の番号4ないし7の四通はいずれも宮操事件について起訴されたのち当該事件について取調べられた、いわゆる起訴後の調書であるが、47はいずれも従来の供述の訂正ないしは補充を内容とするものであり、56はいずれも共犯者の面割を内容とするものであるから、さきに一般的に考察したところからして、右調書の証拠能力を否定することはできない。

五、元相被告人井内秀雄関係について

(一)  井内秀雄の吹田事件一審第二四七回公判における被告人としての供述及び本件記録によれば、同人は、昭和二七年九月三〇日午前〇時三〇分大西事件で緊急逮捕され、同年一〇月二〇日同事件で起訴され、同年一一月一二日保釈決定を受け即日釈放されたが、釈放と同時に別件吹田事件で逮捕され、同月二二日吹田事件で起訴され、同年一二月二日同事件につき保釈決定を受け即日釈放されたもので、この間における同人の本件大西事件についての自白調書として原審が証拠として採用し取調をしたものは次のとおりであることが認められる。

(1) 警察官に対する自白

番号

年月日

回数

取調官

(立会者)

取調場所

供述内容

丁数

1

27・9・30

第一回

川上秋次

(西条宗次郎)

淡路署

経歴、大西

一五五七

2

10・3

第二回

〃 〃

(徳留朝美)

都島署

大西

一五六八

3

10・9

第三回

〃 〃

(〃)

一五七二

4

10・13

第四回

〃 〃

(〃)

一五八一

(2) 検察官に対する自白

番号

年月日

回数

取調官

(立会者)

取調場所

供述内容

丁数

1

27・10・17

第一回

別所汪太郎

(妻木竜雄)

都島署

大西

一五九〇

2

10・27

第二回

〃 〃

(〃)

〃(補充)

一六〇五

3

11・4

第四回

〃 〃

(〃)

大阪地検

〃(補充、面割)

一六一〇

なお、右供述調書中、一審判決等が事実認定の資料に引用したものは、経歴関係では警察官及び検察官に対する各番号1の供述調書、大西事件関係では検察官に対する番号123の各供述調書のみであり、大西事件につき起訴後同事件について作成された供述調書は検察官に対する番号23の供述調書二通である。

(二)  井内秀雄は、本件第一次控訴審の判決後上告中の昭和三七年二月三日死亡し、昭和四〇年四月六日最高裁判所で公訴棄却の決定がなされている。同人が右自供の任意性を争う供述は、本件一審公判の証人に対し反対尋問をなしているほかは、同人の吹田事件一審第二四七回公判における供述のみであつて、右吹田事件の公判の際の供述は、捜査官の取調を受けた順序が不同となつていて、必らずしも明確ではないけれども、前記「宮操事件取調状況一覧表」の井内の欄の取調順序を参考にして、その供述の要旨をみるに、「九月三〇日午前〇時半頃に逮捕されて淡路署の全体の刑事部屋で一〇人ほどの人間が集つているところで畳の上に正座させられ、食事抜きで壁とにらめつこで後から蹴とばされたりした。その夕方だつたと記憶しているが、都島署に移され、その後都島署で調べられた。都島署では徳留、川上刑事らに朝六時か七時頃から晩の九時頃まで、壁に向つて正座させられて壁とにらめつこさされたり、正座さされたうえ後ろから足の上に乗つたり頭髪をつかんで、お前とぼけるなというような調子で調べられ、早く言えば自分の身が軽くなつて出してもらえるというような状態の中で調べられた。精神錯乱状態になつて夢うつつの中でしやべらされたとしか私には思えない。供述調書の指印も私が渋つておるのに手をとつてむりやりに親指をぐつと握つて押させた。その後の警察調書の指印も皆同じ状態だつた。検事から一〇月二八日に都島署で調べられたとき(吹田事件についての調べ)、検事から『生かすも殺すもお前おれの自由やぞ。』というような脅し文句を言われた。そういうときに無我無意識に『竹藪の方で竹をとつて来て竹を火であぶつたり、焼いたのを地面でこすつて先をとがらすようにしている人もいた』というようなことを言つたかもしれませんが、そういう事実はない。事務官も『検事さんに頭を下げて寛大にしてもらつたら、お前も助かるぞ。』というような脅迫じみた誘導したようなことを言われた。検事の供述調書にも事務官にむりやりに指印させられた。」と供述している。

これに対し、井内を取り調べた警察官である川上秋次は、一審第一四回及び当審第二九回各公判において「九月三〇日朝、署に出勤してから、井内の取調べを命ぜられ、淡路署一階の宿直室の畳の部屋で西条刑事と井内を調べた。当時淡路署の調室は大部屋で、その外には机、椅子の入つた別の調室はなく、調室として利用するには畳の部屋しかなかつた。井内に対しては供述拒否権を告げて午前一〇時頃から午後二時か三時頃まで調べた。同人は午前中は黙秘を続けていたが、午後の調になつてから、すらすらと言い出したという記憶がある。一〇月一日は送致手続、検察官の弁解録取、裁判官の勾留尋問などで取調はしなかつたと思うが、はつきりしない。一〇月二日か、日にちは確定しがたいが淡路署から都島署へ身柄を移した。一〇月三日都島署一階の宿直室の畳の部屋で徳留巡査と午前九時半頃から夕方まで取り調べたが、井内の供述態度は本当にまじめで隠すというような点は全然なく、私は全然知らなかつたが、井内は『僕は実は共産党員で淡路細胞に属しているけれども共産党のやり方として吹田事件を起したりラムネ弾を放つたり、僕がそれで捕まつたが、非常に悪いことなので反省してこれを機会に脱党してまじめな道を進みたい。』というようなことを言うていた。一〇月五日は日曜日で取調はせず、教育委員の選挙の日で井内を連れて投票に行き、帰りに着替えをしたいというので、井内を連れて同人宅に寄つた。一〇月六日は吹田事件について調べた。一〇月九日、一三日には、大西事件についての供述調書を作成しているが、これは井内が前の供述で隠していた点、忘れていた点があるというので、それらの点について補充的に取り調べたと思う。九日の調書だつたか、奥野佳子の名前が初めて出て来た。井内は奥野は女だから可哀想に思つて隠していたが、隠していることは良心がとがめるので話すと言つていた。私が井内を取り調べたときに、取調中手錠を用いたことはない。腰なわです。正座は私自身一〇分とできんので相手に正座をせよということは言うていない。私は、共産党員だつたら黙秘権を使うたりするのに、井内は自分からすすんで自供するので本当に共産党員か信じられん気持だつた。井内は自分が供述したことを誰にも言わんといてくれ、ある程度頑張つとつたと言うといてくれ、でないと自分の立場が困ると言うていた。私は、よつしやと返事をしておいた。」と供述しており、

別所検事立会事務官の妻木龍男は、一審第一四回公判において、「別所検事が井内を取り調べた際、その取調に立会したが、取調べに当つて検事が誘導、脅迫などを行なつたことはない。『生かすも殺すもおれの胸一つだ。』というようなことを言つたことも記憶がない。」と述べている。

(三)  しかし、(1)本件記録によれば、井内が逮捕された当時は、既にその前日に木沢が大西事件について自供し、井内がこれに関与していることを供述した調書が作成されていたことが認められること、(2)井内自身、取調中に手錠をかけられていたことについては何ら供述しておらず、前記川上証人は取調中手錠はかけず腰なわの状態で調べた旨供述していることに徴すると、手錠はかけられず腰なわの状態で取り調べられたものと認められること、(3)井内は、吹田事件の公判において、逮捕当日の淡路署の取調について、食事抜きで調べられたと供述しており、同人は同日午前〇時三〇分に逮捕されているから、朝食を抜かれたというのか昼食を抜かれたというのか分明ではないが、本件一審第一四回公判(昭和三〇年二月二四日)における証人川上秋次の尋問に際し、当時被告人だつた井内は淡路署における取調状況について、正座などの点については反対尋問をしているが、食事抜で調べられたかについては何ら尋問しておらず、右井内の供述を記載した吹田事件第二四七回公判調書は当審第三一回公判において取り調べられていて、当審第二九回公判の証人川上秋次の尋問の際には存在しなかつたため、訴訟関係人からとくに右の点についての尋問がなされていないけれども、右川上証人は午前中の調と午後の調とを区別して証言をしていることなど(刑訴法三二八条の証拠として当審第三一回公判で採用した川上秋次の吹田事件第三一八回公判における証言速記録には、食事抜で調べたことはない旨の記載がある。)に徴すると、食事抜で取調べをしたというような特異な状況はなかつたものと認めるのが相当であつて、右井内の供述は措信しがたいこと、(4)また、井内は吹田事件の公判において、右九月三〇日の取調の際、畳の上に正座させられ、壁とにらめつこで後から蹴とばされたりした旨供述し、本件一審第一四回公判において証人川上秋次に対し「淡路署での取調の際、証人はむりやりに私の膝を合わさせうしろを向けと言つたのに、私がうしろを向かなかつたので蹴つたことはないか。」とか、「私があぐらを組んですわつたところ、証人は何じやと言つて脚を合わさせ頭髪を掴んで体の向きを変えさせたことはないか。」と尋問しているところからすると、川上証人は右の事実を否定しているけれども、取調の際井内に対し正座を命じたり、むりに体の向きを変えさせて壁に向つて正座冥想させようとした行為のあつたことを思わせるふしがある。しかし、当審証人川上の証言によれば当日の取調は午前一〇時頃から午後二時か三時頃までで、しかも、午後の取調の当初から供述を始めていることが認められ、その間前記の如く昼食の休憩をとつたとすれば午前中の取調は二時間前後であり、その間種々の質問がなされたことが考えられるから面壁の時間もさして長くはないだろうし、正座を命ぜられても再び足をくずすことは人間の身体的条件からして当然考えるのに、そのようにした場合の取調官のとつた措置については、井内は何ら供述していないことから考えると、正座を命じられたとしても、取調の当初頃だけのことで、それほど苦痛を与えるものではなかつたと考えられるし、むりに面壁行為をさせることは妥当な措置ではないが、違法とはいえず、黙秘する被疑者に対し思い直させる機会を与えることそのものは取調方法として許されて然るべきものであり、右のような状況下において井内は午前中はなお黙秘していたものであること、(5)前記川上証人の証言及び本件記録並びに当審における事実取調の結果によると、井内は九月三〇日午後の取調の当初から供述を始め、経歴、家族関係、ことに自分は共産党員で淡路細胞の一員であり、その入党の動機についてまで述べ、木沢、出上らと大西方へラムネ弾を投げ込んだ事実を認めたうえ、「その時の状況や前後のいきさつ等については後程詳しく申し上げます。」旨供述して、逮捕後十三、四時間後から大西事件を自白し、翌一〇月一日午後三時二〇分頃の検察官の弁解録取、当日これに引き続いてなされた裁判官の勾留尋問の際にも同事件を自白し、爾後保釈に至るまで警察官及び検察官の取調に際し自白していることが認められること、(6)井内は、一〇月一日以降も、朝六時か七時頃から晩の九時頃まで壁に向つて正座させられたり、正座させられた後ろから足の上に乗られたり、頭髪をつかまれて「お前とぼけるな。」と言われたり、検察官からも暴言を言われたりしたというのであるが、逮捕の当日から被疑事実を自白し、共産党員であることまで自ら明らかにしている者に対し、どうして警察官が暴行を加え、さらに壁に向つて正座させる必要があろうか、また、はじめから自白している者に対し、検察官が「生かすも殺すもおれの自由だ。」などというような不穏当な言動に出たり、検察事務官が「検事さんに頭を下げて寛大にしてもらつたらお前も助かるぞ。」などと自白を誘導するような言動に出る必要は毫も考えられないから(原審第一四回公判において証人妻木龍雄もこれを否定している。)、井内のこれらの点に関する供述はきわめて不合理であつて、とうてい採用できないものであること、(7)井内は、警察官及び検察官に対する各供述調書の指印は警察官または検察事務官などに手をとつてむりやりにさせられたものであるというが、その署名については何らの弁解もしていない。指印は物理的力を用いてさせることは不可能ではないかもしれないが、署名は、その意思のない者に物理的力を用いてさせることはとうていできないのであつて、井内の各供述調書末尾の署名を検しても、それらが他人によつてむりやりに書かされたものとは認めがたく、井内の右供述は採用しがたいこと、以上の諸点を合わせ考えると、井内の警察官及び検察官に対する供述調書の自供は任意性があるものと認めるのが相当であつて、逮捕当日の取調当初に前記(4)のような事実があつても、それは右自供の任意性に影響を及ぼすほどのものとはいえない。なお、弁護人は一〇月一日の衆議院議員総選挙投票日に当り、川上刑事は井内を連れて投票させたのち、井内方に寄つて家族に合わせ、前日一部供述しかけたあとであつたため、これを維持するとともに、さらに供述させるため母や家族の情を利用して、その後自白させたというのであるが、その選挙が一〇月一日(水)の衆議院議員の総選挙であつたか、一〇月五日(日)の教育委員の選挙であつたかについて、川上刑事は、当審では一〇月五日頃の選挙じやなかつたかと思うと証言し、吹田事件の公判では衆議院議員の選挙でしたか逮捕してから間がなかつたように思うと証言していて、いずれの選挙の日か分明ではないが、右当審証言によれば、投票の帰途着替えさしてくれないかということで井内宅に立ち寄り、その際、井内の母から「共産党へ入つて困つている、何とかまじめになるように説得してくれんか。」と頼まれ、その後井内を取り調べた際井内にそのことを話したことが認められる。しかし、右井内方へ立寄つたのが所論の如く一〇月一日であつたとしても、九月三〇日には井内は大西事件に関与したことを自白し、その後も自白する態度を示していたのであるから、その次の取調に際し、川上刑事から母親の言うていたことを聞いたとしても、それによつて初めて自白したものでない以上、その自白の任意性を欠くものとはいわれないから、右弁護人の主張は採用しがたい。

(四)  起訴後の調書について

さきに指摘した如く、前記検察官に対する番号23の供述調書二通は、いずれも大西事件について起訴されたのち当該事件について取り調べられた、いわゆる起訴後の調書であるが、2は従来の供述の訂正ないしは補充を内容とするものであり、3は同じく従来の供述の訂正ないし補充と共犯者の面割を内容とするものであるから、さきに一般的に考察したところからして、右調書の証拠能力を否定することはできない。

六、被告人村田不二雄関係について

(一)  本件記録及び当審における事実取調の結果によれば、被告人村田は、昭和二七年一〇月三日午後一時三〇分籾井事件で緊急逮捕され、同年一〇月二三日同事件で起訴され、同年一一月保釈決定を受けて即日釈放されたもので、この間における同被告人の本件籾井事件についての自白調書として原審が証拠として採用し取調べをしたものは、次のとおりであることが認められる。

(1) 警察官に対する自白

番号

年月日

回数

取調官

(立会者)

取調場所

供述内容

丁数

1

27・10・4

第一回

末吉勝義

天満署

黙秘

一六一三

2

10・7

第二回

道吉一一

曾根崎署

籾井

一六一五

3

10・13

第三回

花谷清次

(岩崎功)

天満署

一六二六

4

10・14

第四回

道吉一一

一六三五

(2) 検察官に対する自白

番号

年月日

回数

取調官

(立会者)

取調場所

供述内容

丁数

1

27・10・16

第一回

別所汪太郎

(妻木竜雄)

曾根崎署

籾井

一六四六

2

10・16

第二回

〃 〃

(〃)

一六六一

3

10・23

第三回

〃 〃

(〃)

大阪地検

一六六三

4

11・4

第四回

〃 〃

(〃)

大阪拘置所

一六六八

5

11・5

第五回

〃 〃

(〃)

大阪地検

一六七〇

6

11・6

第六回

〃 〃

(〃)

大阪拘置所

〃(面割)

一六七四

7

11・7

第七回

〃 〃

(〃)

〃(〃)

一六七六

なお、右供述調書のうち、一審判決等が事実認定の資料に引用したものは、経歴関係では警察官に対する番号2の供述調書、籾井事件関係では検察官に対する番号1ないし7の供述調書であり、籾井事件についての起訴後同事件について作成された供述調書は、検察官に対する番号4ないし7の供述調書である。

(二)(1)  しかし、右供述調書中、警察官に対する番号1の供述調書は被告人村田の署名指印があるけれども、黙秘を内容とするもので、刑事訴訟法三二二条一項に規定する形式的要件を欠くものであるから、任意性判断の資料としてならばともかく、右条項による証拠能力があるとはいわれない。

(2)  右(1)の供述調書を除くその余の供述調書の任意性について、被告人村田が自白の任意性を争う主張の要旨は、次のとおりである。すなわち、同被告人は野上の事件の第三八回公判における証人として及び当審第二五回公判において「一〇月三日に逮捕されて西署へ連れて行かれ、そのとき西署の便所の窓から手帳を外へ投げ捨てたところ、通りかかつた人がそれを警察に届け、手帳に名前が書いていたので、逮捕した警察官と思うが『こんなことしやがつて。』と言つて殴つたり蹴つたりされた。すぐ天満署へ移され調べられたが黙秘した。翌四日天満署で別所検事の弁解録取のとき、手錠をはずしてくれたが、黙秘権を行使するというと、同検事は『黙秘権というのは、法律を守る国民のためにあるんだ、お前らのような連中には黙秘権はない。えらそうなことを言うとひどい目に会うぞ、さつさと自供した方がお前のためだ。他の被疑者は全部しやべつている、いつまでも黙秘なんかしてると絶対いいことはないから、早くしやべつてしまえ、いつまでも否認していると、家族の利益のためにもならんから。』と言い、私が机の上に両手をおいていると、態度が生意気だと言つて鉛筆の先で手の甲をつついた。それから裁判所の勾留手続後天満署ではなかつたかと思うが、(勾留状には勾留場所として曾根崎署となつているから、勾留手続の前ではないが。)、畳の部屋で末吉、道吉両刑事に片手錠、(片手錠の点は当審においてはじめて主張)、正座で調べられ、『斎藤、木沢らが供述しているのに、お前だけ否認しとつてもなんともないんだ、むしろ、お前否認してるほうが損ではないか、早くしやべつたほうがいいんではないか。』と追及され、『言わない。』と言うと、末吉が蹴とばしたり、頭を殴つたり、手錠の一方の紐をぐいぐい引つ張つたりした。そのため非常にみじめな気持がした。その後も引き続き末吉、道吉両刑事に調べられ、黙秘していると、一時間でも一時間半でも正座さしたまま片手錠をして反対の手錠を机の足に引つかけて自分達は引つくり返つて昼寝したり雑誌を読み、『まだしやべる気にならんか。』と言つたり『強情張るから罪が一番重い、今のうちに言えば軽くなるだろう。早いことしやべつてしまえ。』と言うては蹴つとばしたり、木沢や斎藤の調書をちらつかせて時々その内容なんかを話したりするので、しやべらなくとも大体わかつているようなものだし、弁護士もなかなか来てくれないので、これはやはり相手の言うとおりしやべつたほうが、身体のほうも楽だし、家族にも累が及ばないだろうということが原因で、一〇月七日に籾井事件について自供するようになつたと思う。一〇月一三日は実地見分で曾根崎署から朝早く車に乗せられて宮原操車場の野球場の近くへ行つたが、斎藤の自供の内容と違うということでその車の中で花谷刑事に足を踏まれたり、蹴つとばされたり、手拳で腹の辺を殴られた。それから天満署に行つて花谷刑事に調べられたが、正座させられ、私がどうしても相手の言うとおりのことを言わないと鉄筆をつきつけたり蹴つたりした。しかし相手の言うとおりにすると足をくずさしてくれたり煙草を吸わせてくれた。一〇月一四日にも調書が作成された。一〇月一六日から曾根崎署で同じ畳の部屋に机と椅子を持ち込まれて別所検事の取調を受け、取調のときには手錠をはずしてくれたが、警察調書を要約し、これを口述して調書をとり『違う。』と言つても、『警察で言つたことと違うじやないか。』と言つて受けつけてくれず、結局警察調書どおりのものが作られた。一〇月二三日に起訴されて拘置所に移され、その後拘置所と地検で別所検事に調べられたが、それは面割程度だつたことしか覚えていない。警察での調の当初から私はたしか東中弁護士と言つたと思うが、『弁護士に会わせてほしい』と言い、調があつた都度も言うたが、『お前らのようなチンピラに会いにくるような弁護士はおらん、東中さんも忙しくてお前らのところへこれるか。』ということで、保釈になるまで一回も会えなかつた。ただ拘置所に移監されてから国民救援会の加古藤さんと父に会つた。」と供述している、

これに対し、被告人村田を取り調べた警察官の供述の要旨は次のとおりである。末吉勝吉は、当審第三〇回、一審第一四回各公判において「自分が村田を取り調べたのは、一〇月四日と同月七日の二回だけです。私は捜査係に入つて六ヵ月足らずのときで、天満署の捜査本部に派遣されて四日目の一〇月四日に本部で雑用を命じられていた際の午前九時過頃、奥野班長から村田の調書をとつてくれと命ぜられ、これまで調書をとつた経験がなかつたが、道吉刑事とともに、そのとき検察官に事件送致するため曾根崎署から連れてこられていた村田の取調に当つた。当時、被疑者を留置警察署外に連れ出すときには手錠を用い、そうでないときは、腰なわだけで手錠は用いなかつた。村田はその日曾根崎署から身柄を連れて来ていたので、自分は天満署の二階の宿直室に入つて村田を調べるとき両手錠から片手錠にして調べたが、取調べ中は、双方あぐらで、村田に正座をさせたことはなく、村田は黙秘権を行使した。私は新米刑事で調書の作成もはじめてだつたので、三〇分位の間に調書をとるのが精一杯で、正座をさせたり、暴行を加えたりする余裕はない。一〇月五日は日曜日で調べていない。一〇月七日、曾根崎署三階(半地下のところではない)の部屋で道吉刑事と二人で村田を取り調べたが、その日村田は初めからすなおに自供していた。その日は留置警察署の曾根崎署で調べたため腰なわだけで手錠は用いなかつた。当審の証人に出るについて検察官から村田の証言記録を見せてもらつたら、調べのときに机の足に片手錠の手錠を引つかけたという証言が出ていたので、私はそういうようなことはしていないので、署に帰つてから当時の大阪の警視庁のマークのついている座机の脚に当時から私の持つている手錠をはめてみましたが、全然はいらんので、なんでこんな証言をされるのかと思つた。村田はあぐらをかいており、同人に対し正座を強制するとか、殴るとかしたことはなく、また村田に正座させておいて片手錠を机の脚に引つかけたり、自分が寝ころんで雑誌を読んだりしたというようなことはない。道吉刑事が与えたのか、村田は私が関与した取調の際に二回とも煙草を吸うていた。自分が村田を第一回目に調べたときに、村田が弁護士は選任できるかというようなことを言うのを聞いたように思うが、誰それを選任するというのは聞いてない。」と述べており、道吉一一は、一審第一四回公判において、「村田ははじめ黙秘権を行使していた。しかし、同人の取調べに際し、誘導したり、暴行を加えたりしたことはない。」と述べており、

花谷清次は、一審第一四回公判において「村田の取調べに際し、誘導したり、脅迫、暴行を加えたりしたことはない。」と述べている。

(三)  しかし、(1)村田が、逮捕直後西署の便所の窓から手帳を投げ捨てたために受けたという暴行は、かりにそのような事実があつたとしても、本件自白に因果関係があると認められないことは、その供述自体に徴し明らかであること、(2)本件記録によれば、村田が逮捕された一〇月三日当時、籾井事件に関しては既に被告人斎藤、同木沢、野上が供述していて、そのうち木沢は九月二七日の供述調書において、村田がこれに関与していることを述べており、また村田逮捕後の一〇月四日に被告人出上が右事件について供述し、村田がこれに関与していることを供述した調書が作成されていたことが認められること、(3)村田は、一〇月四日に裁判所での勾留手続後天満署で末吉、道吉両刑事の取調を受けたというが、村田の勾留状(一七一丁)によれば、勾留場所として曾根崎署が記載されており、末吉刑事の当審証言によれば当日午前九時過頃から取り調べたことが認められ、同日付天満署において取り調べた第一回供述調書があるから、右天満署での取調は、検察官の弁解録取及び勾留手続よりも前になされたものと認められるところ、村田はその際、正座で調べられ、斎藤、木沢らが供述しているのに否認したら損やないか、早くしやべつたほうがいいんやないかと追及され、暴行を受けたというが、当審末吉証人はこれを否定しているところであり、正座の強制、暴行の点については、後記(5)の如く一審第一四回公判における末吉、道吉、花谷各証人に対し反対尋問をしていない事実関係に徴し、その事実の存在を認めるには足りず、かりに取調中正座させられたとしても、村田自身野上の事件の第三八回公判において、右の取調は二〇分か三〇分かであつたと供述し、当審末吉証人は三〇分間と証言している時間からすると、その正座も自白の任意性に影響を及ぼすほどのものとは認めがたく、また村田のいうような警察官の発言があつたとしても、約三〇分間位の取調の際におけるもので、これに対し村田は黙秘していたのであるから、このときの発言の故にその後不任意な供述をしたものとも認められない。もつとも、右の取調の際片手錠を施していたことは村田及び末吉の認めるところではあるが、当日の取調においては、村田は黙秘していて自白はしていないのであるから、片手錠の施用による自白の任意性の問題はおこらないものであること、(4)村田は、検察官の弁解録取に際し、検事から「黙秘権というのは法律を守る国民のためにあるんだ。お前らのような連中には黙秘権はない」といわれたというが、そのような発言は法曹家の常識上考えられないところであるから、検事がそのような発言をしたとの供述は信用しがたいところである。かりに検事が右のような発言をし、その他村田のいうような言動があつたとしても、それにも拘らず、村田はその際に供述拒否の態度を変えず、それに引き続いて行なわれた大阪地裁における裁判官の勾留尋問に際しても供述を拒否していることが記録上認められるから、右の言動が、その後の自白の任意性に影響があるものとは認められないこと、(5)一〇月五日は日曜日で取調のなかつたことは当審証人末吉の証言するとおりと考えられるが、同証人は一〇月六日も取調をしなかつたかの如く証言するのは、同日付の調書が存在しないからではないかと考えられ、村田がその日の取調があつたと供述するのが真実と思われる。村田は一〇月六日以降の取調に際し、取調官から長時間正座させられたり、「今のうちに言えば軽くなるだろう、早いことしやべつてしまえ。」と言うては蹴つとばされたりしたというのであるが(検察官は、末吉や道吉が具体的にどのような方法で正座を強制し、どのような内容の暴行を加えたかというようなことについては、村田は野上の事件の公判では証言していないというが、村田は「末吉、道吉、花谷らに正座を強制された。足をくずすと鉛筆でつついたり、蹴とばしたりするわけです」と証言している。)、村田が主張するような警察官の発言の事実があつたとしても、それだけでは、警察に対する対抗意識の強かつた村田が心ならずも不任意な供述をする原因になつたとは考えられず、また正座の強制、暴行の点については、一審第一四回公判において、村田の面前において井内、奥野らが同人らを取り調べた証人川上秋次に対し、正座の強制について尋問しており、続いて村田を取り調べた末吉、道吉、花谷らが証人として、村田に対して暴行その他不当な取調は一切していない旨証言しているのに、村田は、同証人らに対し他の点については反対尋問をしていながら、暴行の点についてはただ花谷証人に対して「実況見分に行つた際、水をもらつた家を探すため車で私のほか斎藤と行つたときその車内で私を殴つたことはないか。」と尋問しているのみで、取調室における正座の強制、暴行の有無については一切反対尋問をしていないのであつて、自白の任意性を争う者としてこの点についての反対尋問をしていないことは、道吉証人に対する反対尋問が関連性がないとして一審裁判長からその質問を許されなかつた事情があつたとしても、取調室における正座の強制、暴行の事実の存在しなかつたことをうかがわしめるものがある。また村田は、一〇月一三日に宮原操車場付近へ実況見分に行つた際、斎藤の自供の内容と違うということで車の中で花谷刑事に足を踏まれたり蹴られたりしたといい、一審第一四回公判における花谷証人の尋問に際しこの点につき反対尋問をしているが、右花谷証人の証言によれば、その車には運転手を入れて三人しか乗れないもので、車内で村田を殴つたりしたことはないことが認められるから、村田の供述は採用しがたい。また村田は、警察の取調の際、警察官の言うとおりに認めると、煙草を吸わせてくれたりしたというが、当審証人末吉の証言によれば、取調中、道吉刑事が与えたのであろうか、村田が煙草を吸うているのを見たが、それは自白をしたからとか自白をすすめるとかいう趣旨のものではなかつたことがうかがわれるから、右村田の供述は採用しがたい。さらに村田は、一〇月六日以降の取調に際しても片手錠を施用されたままで調べられ、反対の手錠を机の足に引つかけていたというのである。この点について、当審証人末吉勝義の前掲証言によれば、被疑者を留置警察署で取り調べるときは手錠はせず腰なわの状態で取り調べ、留置警察署でない警察署で取り調べるときは片手錠を施用して取り調べる旨証言しているから、右証言からすれば、一〇月六、七日頃の曾根崎署における取調は腰なわ、一〇月一三、四日頃の天満署における取調は片手錠を施用して取り調べたこととなるわけであるが、この原則が本件取締当時において実際そのとおり行なわれていたかは必ずしも明確ではないから、一〇月六、七日頃の曾根崎署における取調は片手錠を施用したまま取り調べたのではないかと思われるのである。しかし、片方の手錠を机に引つかけていたとの点は当審証人末吉の前掲証言によれば、これを認めることはできない。ところで、勾留されている被疑者が、捜査官から取り調べられる際に、片手錠を施したままであるときは、反証のない限りその供述の任意性につき一応の疑いをさしはさむべきであると解するのが相当であることは、さきに説示したとおりであるが、本件において、前記認定の如く一〇月六日以降の取調に際し、取調警察官が村田に対し正座の強制、暴行等強制を加えた事実は認められず、しかも手錠施用の点については、村田は、一審公判における取調警察官の証人尋問に際してもこの点についての反対尋問を一切しておらず、また野上の公判の証人として自ら証言した際にもこの点について触れておらず、差戻後の当審公判に至つて初めて片手錠を施用されていたためみじめな思いをした旨供述するに至つたものであつて、それまでに手錠施用の事実を一度も供述していなかつたところからすると、一審の当初から自己の自白の任意性を争つてきていた村田において、片手錠の施用が自白の任意性に別段影響がなかつたものと感じとつていたとみるのが相当であることなどの諸事情を合わせ考えると、片手錠の施用は村田の自白の任意性に影響がなかつたものと認められること、(6)村田の司法巡査道吉一一に対する昭和二七年一〇月一四日付供述調書において、村田は、便所の窓から捨てた手帳を示されたうえ、「この手帳には友達の名前も書いてあつて、その人達に迷惑がかかるようなことがあればすまないと思うこともあるが、それより、この手帳には新聞で発表された宮操事件の逮捕者野上、木沢、斎藤その外北野高校生のことをメモしてあり、何時か逮捕されたときの対策等についても書き入れてあつたので、この手帳を刑事さんに見られて読まれたときは、私が黙秘権を行使する予定であつたところ、その手帳を見られることによつて、黙秘権を行使しても宮操事件の友達の名前を現わしている関係で隠し切れないと思つて手帳を捨てた。」旨、自白の動機に関連する供述をしていること、(7)村田は、検察官の取調につき、別所検事が警察調書を要約して供述調書を作り、ちがうと言つても受けつけてくれなかつたというが、警察調書と検事調書を検討しても、そのようには認められないことなど、以上の諸点を合わせ考えると、村田の警察官及び検察官に対する供述調書の自供は任意性があるものと認めるのが相当である。なお、村田は警察での取調の当初から警察官に対し東中弁護士に会わせてほしいと言い、その後取調のあつた都度そのように依頼したが、会いにくるような弁護士はおらんといつて、保釈になるまで一回も会えなかつたというのであるが、当審証人末吉の証言によれば、村田から特定の弁護士を選任するという依頼がなかつたことが認められ、村田において警察官が「会いにくるような弁護士はおらん」といつたのであれば、検察官の弁解録取及び裁判官の勾留尋問の際において弁護人依頼の件を申し出で、勾留の通知に際してその旨依頼しておけば連絡してくれる筈であつたと考えられることからすれば、村田の供述は措信することはできない。

(四)  起訴後の調書について

さきに指摘した如く、前掲検察官に対する供述調書の番号4ないし7の四通は、いずれも籾井事件について起訴されたのち当該事件について取り調べられた、いわゆる起訴後の調書であるが、45は従来の供述の補充を内容とするものであり、67は共犯者の面割を主たる内容とするものであるから、さきに一般的に考察したところからして、右調書の証拠能力を否定することはできない。

七、被告人中島泉関係について

(一)  本件記録及び当審における事実取調の結果によれば、被告人中島は、昭和二七年一〇月三日午後二時頃宮操事件で緊急逮捕され、同月二三日勾留不必要として釈放されると同時に別件の吹田事件で逮捕され、同年一一月一三日家庭裁判所に宮操、吹田の両事件が送致されるとともに両事件につき観護措置として大阪少年鑑別所に収容され、同月二〇日検察官送致となり、同月二四日吹田事件及び本件宮操事件につきそれぞれ起訴され、翌二八年二月一一日保釈許可決定を受け、同年七月一八日釈放されたもので、その間における同被告人の本件宮操事件についての自白調書として原審が証拠として採用し取調をしたものは、次のとおりであることが認められる。

(1) 警察官に対する自白

番号

年月日

回数

取調官

(立会者)

取調場所

供述内容

丁数

1

27・10・6

第二回

広田正男

大淀署

経歴等

一一五六

2

10・8

第三回

(古池泰博)

宮操

一一五九

3

10・9

第四回

(〃)

一一七五

4

10・10

第七回

広田正男

一一八九

5

10・10

第九回

(古池泰博)

一一九二

(2) 検察官に対する自白

番号

年月日

回数

取調官

(立会者)

取調場所

供述内容

丁数

1

27・10・15

第一回

別所汪太郎

(妻木竜雄)

大淀署

宮操

一一二六

2

11・6

第二回

(〃)

大阪拘置所

一一四八

3

11・6

第三回

(〃)

〃(面割)

一一五二

4

11・7

第四回

(〃)

〃(〃)

一一五三

5

11・20

第五回

(〃)

〃(補充)

一一五四

なお、右供述調書のうち、一審判決等が事実認定の資料に引用したものは、経歴関係では警察官及び検察官に対する各番号1の供述調書、宮操事件関係では検察官に対する番号1ないし5の供述調書のみであり、右検察官に対する番号5の供述調書は家庭裁判所から検察官送致決定のあつた日、その決定後、大阪拘置所における取調にかかるものと認められる。

(二)  被告人中島が右自白の任意性を争う主張の要旨は次のとおりである。

すなわち、同被告人は、野上の第二七回公判及び当審第二六回公判において「逮捕された翌日の一〇月四日(土曜日)に大淀署から天満署へ連れて行かれ二階の畳の部屋で青木刑事に前手錠、正座で約三〇分間『黙つていたらためにならんぞ。』など言つて取り調べられた。それから検察庁で別所検事に簡単に調べられ、ついで裁判官の勾留尋問を受けたのち大淀署に帰つた。一〇月五日は日曜日で取調はなく、一〇月六日は午前八時過から大淀署の三階の六畳位の畳の部屋で広田部長、青木、古池刑事が前に、渡辺刑事が後にいて私が足をくずしていると広田部長が『わしも正座しているのにお前も正座せんかい。』と言つて、前手錠のまま正座させられ、広田部長が『名前を言え。』『黙つとつたら不利になるぞ。』『黙つたままで帰つて行こうというても、そう簡単に帰らさないぞ。』などと言い、さらに『ほかの者はしやべつておつて調書もここにある。』と言つて調べられた。そのときだつたか後だつたか野上の検事調書だつたと思うが野上の調書や木沢の調書の署名捺印も見せられた。足をくずそうとすると、『正座せい。』と言つて蹴られた。昼食のため房へ帰つたが食べられなかつた。午後また正座、前手錠で調べられ、夕方ごろ家族、経歴等について供述した。正座のため足がしびれてまともに歩けず、ようやく階段のへりにすがりながら降りて房に帰つた。一〇月七日も、広田、青木らに前同様の方法で調べられた。三階の調室へ階段をあがるとき、古池刑事が『野上はもうようあがれんようになつとるぞ。』と言つていた。その日は朝の官弁を食べなかつた。刑事らは、他の者の調書をもつてきて『こうじやないか。』『嘘を言うな。』と言つて広田に手で両頬を殴られ、『よく考えろ。』と言つて、壁に向つて正座させられ、青木は『お前も早く言つて帰らしてもらつた方が得だ。』などと言われ、その日の夕方ごろから、相手の言うとおりにうなずいてメモをとられた。供述しかけてからは、手錠をはずし、あぐらをかかせ、毛布まで敷いてくれ、渡辺はお茶を入れてくれた。広田は『吸え』と言つて、煙草を差し出してくれたが、青木は『未成年じやないか煙草を吸つたら逮捕するぞ。』とおどした。一〇月八日も同じメンバーの刑事に調べられたと思う。その時は正座させられたりあぐら許されたりで、手錠はしてなかつたと思うが、途中違つたことを言うと、正座させられ、広田が『まだ隠しとる、まだわからんのか。』と言つて首筋を押え、前の座机に頭を二、三回こつんこつんとぶつつけた。そのために相手の言うとおりに調書が作られた。一〇月九日、一〇日も正座の状態で調べられ、相手の言うのをうなずくままに調書が作られた。また、現場検証に連れ出され、途中十三橋署に立ち寄つたときには、拳銃の分解掃除をしている部屋に連れ込まれ、渡辺から『嘘を言つたら撃ち殺してやる。』とおどされた。一〇月一〇日頃に岡山にいる父が面会に来てくれ、青木刑事が立会つて面会を許された。そのとき父は『お前だけが頼りだから、早う帰らしてもらうようにせい。』と言つて泣いたので、私も動揺した。一〇月八日付、同月九日付各供述調書添付の図面は、刑事に教えられてそのとおりに書いたものである。別所検事は、警察官調書に従つて尋問し、自分が違うと言うと『嘘を言うと罪が重くなるぞ。』などと言つた。」と供述している。

これに対し、被告人中島を取り調べた警察官である広田正男は、当審第三〇回各公判において、「一〇月三日、逮捕直後の弁解録取は私がとつた。一〇月四日は私は十三橋で野上を調べていたので中島の取調には関与していない。一〇月五日は日曜日で取調はなく、次に私が中島を調べたのは一〇月六日(月曜日)で、古池刑事と一緒に大淀署の二階か三階の畳の部屋で調べた。青木刑事は福島署へ斎藤治を調べに行つていたので、同刑事はいなかつた。渡辺という刑事は私の捜査班にはいなかつた。その日、供述拒否権を告げて中島を取り調べたが、同人は最初からすなおに事件の内容についてまで供述していた。しかし、その日は経歴、家族関係のみを供述調書に作成し、事件の内容はメモにとゞめた。翌七日も事件の内容を聴いてメモをとり、一〇月八日も取調をし、前日のメモも加えて供述調書を作成した。一〇月九日、一〇日も取調をした。このときは青木刑事は巡査部長の昇任試験を受けるため取調に関与せず、宮操事件については私が調書をとり、吹田事件については古池刑事が調書をとつた。調書添付の図面は中島が自分で書いたもので、私らの方からこのように書けと言つて書かしたものではない。中島の取調はすべて腰なわをした状態で取り調べ、中島は殆んどあぐらをかいていた。正座を命じたり、手錠をかけたりしたことはなく、私が中島の頬を手拳で殴つたり、中島の首筋を押えて机に頭をぶつつけたというようなことはしていない。中島の父が中島に面会に来たことはあるが、それは警察の取調が終つた頃だつた。」と供述している。

(三)  ところで、本件記録、ことに前掲関係証拠を総合すると、中島が逮捕された昭和二七年一〇月三日午後二時当時、宮操事件に関しては既に斎藤、木沢、野上が供述していて、そのうちただ木沢のみが同日付の供述調書において、中島がこれに関与していることを述べており、逮捕後の一〇月四日に野上及び出上が右事件について供述していて中島がこれに関与していることを供述した調書がそれぞれ作成されていたこと、被告人中島は、昭和八年九月生れで当時一九歳になつたばかりの少年で、昭和二七年一〇月三日に逮捕されて以来取調三日目(一〇月五日は日曜で取調なし)の一〇月六日の午前中まで黙秘していたが、同日午後の取調の際家族経歴について供述するに至り、翌七日夕方頃から宮操事件について自供し、爾来宮操及び吹田両事件について交互に取調を受け、その都度警察官及び検察官に対し自供を続けていたことが認められるところ、被告人中島が自供するに至つた動機に関する前示供述、すなわち両手錠の施用、正座の強制、暴行と供述の押しつけにより、これに耐えかねた結果、自供するに至つたとの供述のうち、両手錠の施用の点については、中島は野上の第二七回公判(昭和三八年二月一四日)において初めて供述するに至つたもので、一審第九回公判(昭和二九年五月二八日)において取調警察官であつた証人広田正男の尋問に際し、他の点については反対尋問をしながらも手錠の点については尋問をしておらず、中島のいうような、黙秘しているときは両手錠をかけられ供述しかけると手錠をはずしてくれたということは特異な現象であるのに、その当時自白の任意性を争つて来ていた中島がこの点についての反対尋問をしていないことは、取調の際に果して両手錠を施用されていたものかは疑わしく思われる(吹田事件判決四一九頁以下の被告人中島の自白の任意性の判断においても両手錠施用の供述がなされていないのか、その点についての摘示がない。)。しかし、その余の正座の強制、暴行等の点については、中島は、一審第九回公判において証人広田正男に対し、「月曜日(一〇月六日を指す)の取調の際、私が畳の上で楽にすわつていたところ、証人は「正座せよ。」といつて、あぐらをかいていた私の脚を蹴つたことはどうか、そばにいた青木刑事が『言わないか、言わないか。』と言つて拳で私の脚を突いたのは見ていないか、一〇月七日火曜日に大淀署の北三階で証人の調を受けたとき、証人は片手で私の顎を上げ片手で私の顔を殴つたことはどうか、その翌日、証人は『言わないか。』と言つて私の頭を机の上へゴツンゴツンと当てたことはどうか、その日『まだ嘘を言つている。』と言つて、私の首をしめつけて畳に頭をすりつけたことはどうか。」などと熱心に反対尋問をしており、他方、広田正男は、一審第九回公判において中島がいうような不当な処遇を否定しているが、正座の点については「自由意思で正座させているが、積極的に正座せよと言つたことはない。」旨述べて、必ずしもこれを否定せず、ただこれを強制したことはないと証言しているところからすると、正座の強制、暴行などによる供述の押しつけがあつたという中島の供述を無下に否定し去ることはできない。もつとも、中島は野上の公判の証人として一〇月六日の取調の際野上の検事調書だつたと思うが野上の調書の署名捺印を見せられたと証言しているが、同日には野上は別所検事から宮操事件について取り調べられて同日付第一回供述調書が作成されているから、同日中島の取調の際に野上の検事調書の署名押印を示すことはできるはずがないから、野上の検事調書を見せられたとする証言は信用しがたく、前記手錠の施用の点をも加えて中島の証言には記憶違いの点がないではないが、その故をもつて、その供述全体の信憑性を否定することはできない。以上の如く、正座の強制、暴行などによる供述の押しつけのあつた疑いのある点については、その供述するところの信憑性も否定しがたいこと、及び当時同被告人は未だ少年であつたことを合わせ考えると、結局、中島はこのような不当な取扱いによる身体的心理的圧迫に耐えかねて、宮操事件について供述し、その後もその繰り返しをおそれて、同事件についての供述を重ねるに至つたものではないかとの疑いを抱かざるを得ないから、警察の取調時における供述には任意性に疑いがあるというほかない。そして、検察官の取調のうち、身柄が警察署に留置されているときの取調は、その後警察による取調は行なわれていないことは記録によつて明らかではあるけれども、中島において警察官による不当な処遇にかんがみ、検事にさからうと、また刑事にやられるということをおそれて、迎合的に供述したのではないかと疑われるふしがあるから、その際の検察官の取調は、警察における前示のような取調の影響力の存続する状況下でなされたものと認むべく、したがつて、前記検察官に対する番号1の供述調書の自供にも任意性に疑いがあるといわざるを得ない。

しかしながら、検察官に対する番号2ないし4の各供述調書は一〇月二三日に大阪拘置所に移監されたのち約二週間後、警察官の最終の取調から約一ヵ月近く経過したのちに作成されたもので、再び警察署に戻されて警察官に取り調べられるというおそれがなくなつたと考えられる時期における検察官の取調にかかるものであり、検察官に対する番号5の供述調書は家庭裁判所から検察官に事件が逆送された日における取調にかかるもので、いずれも捜査官ではない第三者である拘置所職員の立会のもとに取り調べられた際の自白を内容とするもので、少年であつた中島としても警察の取調の影響から離れた状態において自白したことがうかがわれるから、右の自白はいずれも任意になされたものと認めるのが相当である。

八、被告人奥野(現姓上殿)佳子関係について

(一)  本件記録及び当審における事実取調の結果によれば、被告人奥野は、昭和二七年一〇月一四日大西事件で逮捕され、同年一一月四日同事件で起訴されたものであるが、同被告人は逮捕以来起訴されるに至るまで一貫して黙秘をつづけていたところ、起訴後司法巡査川上秋次(立会者成内貞義)に対する昭和二七年一一月七日付第四回供述調書において初めて経歴と大西事件の一部を自供し、ついで同年一一月二三日吹田事件について黙秘のまま起訴され、同年一二月三日保釈決定を受けて釈放されたもので、原審が同被告人の自白調書として証拠として採用したものは右警察官に対する第四回供述調書のみであつて、一審判決はこれを経歴関係及び大西事件関係の事実認定の資料として引用していることが認められる。

(二)  被告人奥野が自供の任意性を争う要旨は、次のとおりである。すなわち、同被告人は、野上の第三九回公判の証人として、また当審第二六回公判において被告人として、「一〇月一四日に逮捕され、その翌日から日曜日を除いて連日、川上、成内、福安刑事らに港署の畳の部屋で取り調べられたが、一切黙秘した。取調中は、正座を強要され、正座をしないときでも女だから足を横にくずす程度にしていたため、かなり足がしびれた。正座をくずすと、刑事が『くずしたらいかん』と言つて両手で足をギユーとしめつけたことがあつた。手錠をかけるのはいつもではなく、はずされていたこともあるし、前両手錠のときもあつた。供述拒否権は告げられたし、自分も知つていた。黙秘を続けていたため、刑事が『他の者は供述しているから早く言え』。とか、『何も言わないと刑が重くなる。』など言い、木沢、井内らの調書をめくつてちらつかせながら一部を読んだりし、さらには井内を二人位の刑事が連れて来て『早くしやべつてしまえ、しやべつた方がよい。』と言わせたこともあり、川上、成内刑事らは、私をすわらせておいて横で碁を打つているときもあつた。一一月四日に大西事件で起訴されたことを後日(送達報告書によれば一一月六日午前一〇時五〇分起訴状謄本が送達されている。)知つた。二〇日間位で釈放されると思つていたのに、それ以上も勾留が長びき、その間精神的、肉体的な苦痛で動揺したため、一一月七日取調室へ連れ出されて調べを受けたときに大西事件について一部供述しかけた。しかし、刑事が自分の言わないことをどんどん調書に書き、自分の気持と違うことが書かれるので、途中でやめてくれと言つてやめさせた。署名はしたくなかつたが、ペンを持たされ、無理に署名せよ、と言うので、ついふらふらと署名した。しかし指印は拒否した。」と供述している。

これに対し、被告人奥野を取り調べた警察官である川上秋次は、一審第一四回、当審第二九回各公判において「一〇月一五日港署で奥野に供述拒否権を告げて取り調べようとしたところ、同女は、『権力の犬に対して何も言う必要はない。』と言つたのみで、以後毎日のように調べたが、一言もしやべらなかつた。奥野は、自分の警察官生活の間で一番意思の強固な人であつた。同女の取調についてはさじを投げていた。取調中は、腰なわだけで手錠はしなかつた。奥野は何もしやべらず、手で腰なわに触つていたのを記憶している。また、正座の点については、女だから正座したり、横に足をくずしたりしていたが、それは相手まかせで、私自身も正座に弱いので相手に正座を強制はしていない。奥野に正座させておいて傍で成内刑事と碁をうつたことはない。成内は碁を知らず、自分も昭和三三年頃に碁を覚えただけだから、当時碁をするはずがない。古川弁護士の弁護届(昭和二七年一〇月二九日付、記録六〇丁)に記載の日であつたか、起訴前に古川弁護士が奥野に面会に来て警察官の立会なしに面会した。ところが一一月七日吹田事件について調べるため奥野を調室に出していたところ、突然、同女が『言うから書いてくれ。』と言い出したので、びつくりして奥野が言うとおりに供述調書を書きかけた。ところが、途中で『今日はこれでやめてくれ。』と言うので仕方なくそこで調書を打ち切つた。奥野はその調書に署名はしたが、指印はしなかつた。その供述調書は、取調官が勝手に書けるものではなく、署名も強制したのではない。その後奥野は再び黙秘した。」と述べている。

(三)  しかし、(1)本件記録によれば、被告人奥野は、本件被告人、元被告人のうちで最後に逮捕されたもので、その逮捕当時は、既に木沢、井内、出上が大西事件について自供し、奥野がこれに関与していることを供述した調書が作成されていた時期であつたことが認められること、(2)被告人奥野が取調中正座を強要されたという点については、被告人奥野は「正座をしないときでも女だから足を横にくずす程度にしていたためかなり足がしびれた」と供述しているところからして、果して正座を強要されたものか疑問がうかがわれ、また手錠の施用についても「手錠を施用しない日もあつた」など供述していて、取調の際両手錠をされていたかについての供述が甚だあいまいで弱く、かえつて前記川上証人の証言する如く、取調中は腰繩で、正座をするもしないも被告人奥野の自由であつたと認めるのが相当であること、(3)被告人奥野が自供するに至つたのは、逮捕当初から終始黙秘し、一〇月二九日頃弁護人とも面会したが、その後、逮捕後二一日目に当る一一月四日に黙秘のまま起訴されるに至り、その起訴状謄本を一一月六日に受領してこれを知つたところから、黙秘していても起訴されるのなら自供したほうがよいだろうかと心が動揺してその翌日自供するに至つたのではないかと推測され、同被告人の供述する如く「二〇日位で釈放されると思つていたのに、それ以上も勾留が長びき………動揺したため………」という自供の動機は十分考えられるところであり、また同被告人がその自供の途中で「やめてくれ」と言つたのは、その心の動揺がまた前の状態に戻らせるに至つたからであろうと考えられること、(4)前記自供調書には自分が供述しないことが記載されており、署名も強制されたものであるというが、その供述の内容を検討すると、大西事件の経過につき一部自供しかけたものの途中で中断して犯行にまで至らず、しかもその僅かな供述調書中の随所に記憶がない旨の供述をしていて、取調の警察官が奥野の言わないことをどんどん書いて行つたものとはとうてい考えられず、またその署名を強制されたというのであればともかく、その署名を検しても、とうていむりやりに書かされた書体とは認められないから、とうてい署名を強制されたものとも考えられないこと、などに徴すると、前記被告人奥野の供述調書の自供は任意性があるものと認めるのが相当である。

(四)  ただ、右の供述調書は、大西事件で起訴後、同事件についての供述を録取したものであるが、前記被告人奥野及び証人川上の供述により認められる如く、川上証人が奥野を別件の吹田事件について取り調べるため取調室に出していたところ、突然奥野の方から供述したいと言い出したものであり、奥野は二〇日余りで釈放されると思つていたのに却つて起訴されたため、精神的な動揺を来して自供を申し出、一旦自供しかけたが、途中で思い直して供述を中止したものとみられるから、さきに一般的に考察したところからしても、起訴後の取調の故をもつて右自供調書の証拠能力を否定することはできない。

第四、以上説示した如く、一審が採用し証拠調をした被告人らの供述調書中、形式的要件を欠くもの及び自白の任意性に疑いがあるとしたものは、いずれも証拠能力がないから、刑事訴訟規則二〇七条によりこれらの供述調書を証拠から排除することとし、主文のとおり決定する。

別紙

一、被告人斎藤勇の

(一)、司法警察職員に対する第一回ないし第一六回各供述調書一六通(警察調書の全部)

(二)、検察官に対する第三回ないし第八回各供述調書六通(検察官調書の全部)

二、被告人木沢恒夫の

(一)、司法警察職員に対する昭和二七年九月二七日付、同月二九日付、一〇月三日付(二通)、同月六日付、同月八日付、同月一一日付、一〇月一四日付(二通)、同月三〇日付各供述調書一〇通(警察調書の全部)

(二)、検察官に対する昭和二七年一〇月一〇日付、同月一七日付、一一月四日付各供述調書三通(検察官調書の七通中の三通)

三、野上銀次郎の

(一)、司法警察職員に対する第二回ないし第七回各供述調書六通(警察調書の全部)

(二)、検察官に対する第一回ないし第四回各供述調書四通(検察官調書の全部)

四、被告人村田不二雄の司法警察職員に対する第一回供述調書(警察調書四通中の一通)

五、被告人中島泉の

(一)、司法警察職員に対する第二回、第三回、第四回、第七回、第九回各供述調書五通(警察調書の全部)

(二)、検察官に対する第一回供述調書(検察官調書五通中の一通)

以上

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